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ことう ぶんじろう

小藤文次郎

ことう ぶんじろう

1856.4.8(安政3.3.4)〜 1935.3.8(昭和10)

明治・大正・昭和期の地質学者

埋葬場所: 14区 1種 9側

 島根県津和野町後田新丁出身。藩校養老館で学んだ後、1879(M12)東京帝国大学地質学科第一期生として、ナウマン博士について地質学を学んだ。 翌年ドイツ留学を命じられ、ライフツィッヒ大学、ミュンヘン大学で地質学を研究した。 1884帰国後、同年発見した玄武岩を兵庫県の玄武洞の名にちなんで命名したするなど活動し、1886東京帝国大学地質学教授、1887世界で初めて紅簾石片岩を報告。1888日本最初の理学博士となった。
 1891に起きた濃尾大地震では断層地震説を主張、このとき撮影された写真は世界中の教科書に採用された。 日本地質学の草分けとして東京学士院会員など多くの要職を歴任、研究は国際的に高い評価を得た。 1922(T11)10月に東京大学名誉教授の称号が授けられ、退官後も研究を続けた。享年79歳(墓誌には80歳)。正3位勲1等。

<島根県人名事典など>


墓所

*墓所は和型が二基並んで建つ。右側が「小藤文次郎之墓 / 妻 ウメ之墓」。左側が「小藤家之墓」。墓所左側に墓誌がある。2003.5.10に先祖代々の御霊を郷里島根県津和野より合祀した旨が墓誌に刻む。

*嗣子の小藤甫(同墓 1898-1992)は理学博士、愛媛大学工学部長。1962新居浜工業高等専門学校初代校長を務めた。

<蝦名様より情報提供>


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