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こまだ こうよう

駒田好洋

こまだ こうよう

1877.7.1(明治10)〜 1935.8.11(昭和10)

明治・大正期の元祖活弁家、映画プロデューサー

埋葬場所: 14区 1種 26側 2番

 大阪出身。本名は万次郎。呉服商の家に生れたが、少年の大志に駆られてアメリカに密航し、放浪二ヶ月余ののち所持金がなくなり帰国。
 上京して東京京橋の広告代理業者「広目屋」の店員となる。1897.2(M30)エジソン発明のヴァイタスコープ(活動写真)が輸入されてその披露興行一切を受け持ったのを縁に、ヴァイタスコープを譲り受け、同.5 映画の解説者(活弁士)となり「日本率先活動大写真会」としてアメリカ映画を興行して回り始めた。洋行帰りということで「好洋」と改名する、この時19歳。
 エジソンの直弟子と名乗り、片言の英語などを交えて得意の弁舌を振るった。口ぐせの形容詞「頗る(すこぶる)非常」が時の流行語となったので、宣伝に「頗る非常大博士」の文字を刷り込み、日本全国を巡業して人気者となる。映画館のない時代の「巡回興行」の草分けであり、映画説明者の活動写真弁士第一号でもある。
 1899 小西写真機店(後のコニカミノルタ)からムービーカメラを購入し、その店で働いていた22歳で同い年で日本初の撮影技師の浅野四郎と、東京芝の料亭「紅葉館」で3人の芸者の踊りを撮影した。この撮影した映画を同.6.20 歌舞伎座で公開。この「芸者の手踊り」が日本初の商業公開用の映画とされている。翌年「かっぽれ」という作品を明治座で公開。同年、日本初の拳銃強盗事件をテーマに俳優の横山運平らに演じさせた映画「ピストル強盗 清水定吉(稲妻強盗)」を製作。これが日本初の劇映画となり、犯人の清水を取り押さえ24歳で殉職した警察官を演じた横山運平は日本初の映画俳優となった。
 その後も「東京活動写真会」名義で歌舞伎や相撲の撮影フィルムを持って全国を巡業して廻り、折しも起きた日露戦争の実写の記録映画が、活動写真の人気に火を付けた。
 巡業が衰微してからは、上野動物園裏の自宅でセカイフィルム社を設立。所蔵している自身で撮影したものや日露戦争の実写、映画、「ジゴマ」などのフィルムの貸し出し業を行った。

<朝日日本歴史人物事典>
<講談社日本人名大辞典>
<国史大辞典など>


こまだ こうよう

*墓所内には正面和型「駒田家之墓」、裏面「昭和六十年八月吉日建之 施主 駒田好一 眞理子」と刻む。左側にたぬきの石像が建つ。並んで「駒田好洋之墓」と刻む石柱、左面には「妻 駒田まを」、裏面「昭和拾年八月十一日歿」と刻む。墓所右側奥に観音像、代々の古い墓石、駒田好二(H24.7.11歿・84才)から刻む墓誌が建つ。



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