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きたざわ しげぞう

北澤重蔵

きたざわ しげぞう

1880(明治13)〜 1932.12.31(昭和7)

大正・昭和期の実業家(甘栗太郎)

埋葬場所: 6区 1種 12側

 長野県上水内郡日里村出身。醸酒業を営む北澤八重蔵の長男として生まれる。幼い頃より算数に長けており、小学校を卒業後、代用教員となった。 実業を志して上京し、東京の中学校を卒業。帰郷して、醸酒製造等を経営するが失敗。困窮を極めたが、屈せず再び上京し、更に事業への志しをもって支那(中国)へ渡った。
 当時中国の燕山山脈付近でしか取れなかった天津甘栗の味を知り、この甘栗を持ち帰り輸入することに着眼する。 1914(T3)甘栗専業として販売を開始。現在の甘栗太郎本舗の元祖であり、この年が創業年とされる。 '18(T7)東京の池之端で世界万博が開かれた時、桃太郎にあやかり「甘栗太郎」と命名して実演販売を行い好評を博した。 これを機会に販売している天津甘栗を「甘栗太郎」として世間に定着させていった。 この頃、本店を東京市本郷区湯島六丁目に置き、支店を内地を始め、支那、満州の各地に設け事業を拡大。 '29(S4)渡米して実業界視察したことを契機に米国にも進出した。実業以外に公共事業にも貢献。町議会議員、本郷区議としても活動した。 著書に立身出世自伝である『五萬や拾萬の端金』(1925)がある。近隣諸国への事業展開を進めていた最中、隣り家で発生した猟銃殺人事件(大晦日猟銃殺人事件)に巻き込まれ、志半ばで亡くなる。享年52歳。

<墓所内碑石などより>


墓誌

*墓石には「北澤家之墓」。左側に墓誌がある。戒名は仁侠院梃身重義居士。墓所内の入口左側に道路に面して「北澤重蔵氏碑」が建つ。 この「北澤重蔵氏碑」によると、この碑は「伊豆熱海記念碑」として伊豆熱海温泉郷牡丹臺に建之したと刻み、墓所にある碑は冩(うつし)とある。なお、碑の撰は文学博士 下田次郎。湯島六丁目町会が建之した。


【甘栗太郎のその後】
 北澤重蔵の急死により、甘栗太郎本舗の事業は長男の北澤嘉幸(1910-1974 同墓)が急きょ後を継いだ。 当時の天津甘栗の輸入は年間約300〜400トンであり、他に朝鮮栗も輸入されていたが、甘栗太郎は中国産にこだわった。 まだ冷蔵船がない時代であったため、産地購買、出荷集荷は大変な苦労があり、戦前は後の社長となる柴源一郎(1917-2005)が仕入れ担当として尽力していた。 戦時中や戦後の混乱等で甘栗の輸入が止まり、甘栗太郎本舗もこれに伴い解散した。柴源一郎は郷里に帰り農業を始め、小豆市場売買を行っていた。
 '49中華人民共和国が成立し、甘栗貿易も再開される。'56(S31)柴源一郎が甘栗太郎の復活を志し、株式会社甘栗太郎を創業し、社長となる。 しかし、'58長崎国旗事件を皮切りに日中貿易が中断したあおりを受けて、(株)甘栗太郎は倒産の危機に陥る。 '59総評事務局長の岩井章が中国訪問をすることを知り、柴が連日連夜請願し、民間の中小甘栗専業者救済の嘆願を、中国の周恩来首相にすることを委託した。 結果、甘栗を配慮物資として貿易再開されることとなり、天津甘栗は、日中民間友好貿易の象徴商品(シンボル)と成った。
 危機を脱した(株)甘栗太郎は以後、店舗数を増やしていく。1999(H11)柴源一郎が一線から退き会長となり、(株)甘栗太郎創業年と同じ年生まれの田中康則が2代目社長として就任。 翌年、「甘栗太郎のむき栗」を商品化し好評を得、駅中やコンビニへ進出し事業を拡大。購入しやすく、老若男女問わずその美味しさを堪能できる甘栗太郎として現在に至る。

<「甘栗読本」中田慶雄など>


【大晦日猟銃殺人事件】
 1932.12.31(S7)午後9時。本郷区湯島の野村引抜き注射針製作所の主人の長男である野村正義(40)は酒を飲んで帰宅したところ、父親と口論となり、女中が隣家の甘栗太郎主人の北澤重蔵に仲裁を依頼した。 父は交番から警察を呼んだが、警官が帰ったところ正義は2階から5連発の猟銃を手にして階下に降り、父に発砲して左足膝を撃った。 次に自分の妻にも発砲し右足ふくらはぎへの負傷と膝下切断の重傷を負わせた。更に、従弟の野村隆司、仲裁に入っていた北澤重蔵にも発砲し二人を殺害した。 北澤重蔵は腰から腹にかけて弾を貫通させられ殺害された。駆けつけた警察に正義はその場で取り押さえられ逮捕された。

<昭和ラプソディ>


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