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きたはら さとこ

北原怜子

きたはら さとこ

1929.8.22(昭和4)〜 1958.1.23(昭和33)

昭和期の社会奉仕家・蟻の町のマリア

埋葬場所: 12区 1種 25側

 東京出身。父は群馬大学や東京農業大学の教授を務めた経済学博士の北原金司(同墓)の三女として生まれる。 桜蔭高等女学校を経て、昭和女子薬学専門学校を卒業し、1949(S24)光塩女子学院にて受洗。カトリック信者。洗礼名はエリザベス。堅信名はマリア。
 令嬢として生まれ育ったが、浅草の姉の家に住んでいた時に、'50ゼノ神父と出会い、蟻の町での奉仕を始める。 蟻の町は墨田公園の一角にあり、40世帯、百余名の共同生活体として発足したもので、私欲を排し、共同購入、 共同利用の方針をとっていた。 怜子は次第に持てる者が持たない者を助けるという姿勢に疑問を抱くようになり、自ら「バタ屋」となって廃品回収を行うようになり、町の子供たちの教育にあたった。 その姿は称賛され「蟻の町のマリア」と言われ親しまれた。『蟻の町の子供達』という著書も刊行した。
 体力の無理が祟り結核を患う。療養のためにその地を離れるが、病状が悪化しこれ以上の治療方法がないと悟った時、再び蟻の町に戻る。 この頃は高度経済成長によりインフラが整備されている時代であり、東京都は幾度となく蟻の会に立ち退きを求めてきた。 蟻の町を存続させるために、蟻の会の人々は教会を建てることを主張し、建物の屋根に十字架を取り付け居座った。 新聞にも取り上げられ、怜子の名は「蟻の町のマリア」として広く知られるようになる。末期の状況の怜子は十字架が立った建物の近くに住み、蟻の町のためにひたすら祈り続けた。 28歳の若さで息を引き取る4日前の'53.1.19、東京都は蟻の会の要求を全面的に認め、蟻の町の8号埋立地(枝川。現:潮見二丁目)への移転が決定した。'60蟻の町は枝川に移転。
 怜子が亡くなった年に松竹は、ノンフィクションに近い形で「蟻の町のマリア」を映画化した。監督は五所平之助、主演は千之赫子、出演者には丸山明宏(美輪明宏)もいた。 蟻の町教会は、カトリック枝川教会を経て、江東区潮見のカトリック潮見教会となり、'85完成した教会堂名は「蟻の町のマリア」と冠された。

<日本「キリスト教」総覧など>
<森光俊様より写真提供>


墓所

*墓所には正面に3基の墓石が並ぶ。右端が「エリザベス マリア 北原怜子之墓」、真ん中が洋型「北原家之墓」、左端が洋型「和 高木」。墓所右手前に墓誌がある。

*'60蟻の町が枝川(潮見)に移転した際に、その地に怜子の胸像が建てられた。現在は、父の北原金司が創設した「あかつき特別養護老人ホーム」に移されている。

*北原怜子が蟻の町での奉仕活動のきっかけとなったゼノ神父の墓所は、多磨霊園にほど近い、府中カトリック墓地(府中市天神町4-13-1)に墓がある。


北原金司 きたはら きんし
 1899(明治32)〜 1981.11.12(昭和56)
昭和期の経済学博士、農学博士
 群馬大学や東京農業大学の経済学・農学教授を歴任した。'37〜'69 公益財団法人北海道在京学生後援会・北海寮 監事を務める。1961.6 高崎経済大学第二代学長に就任(〜'64.3)。著書に『実践農業経済学』(1936)、『経済学要綱』(1958)、『西洋経済通史』(1959)、『社会の生成発展』(1966)がある。また、'71『マリア怜子を偲びて その愛は永遠に』という著書を発刊している。
 妻は 女+英(1991.11.7歿 同墓)。1男4女娘を儲ける。悦子と哲彦(1945 23才)は早死。長女の和子(マリア高木和子 2017.5.3 95才 同墓)は(株)高木商店(履物問屋)の高木一郎(ヨゼフ 同墓)に嫁ぎ、同墓に高木家の墓石も建ち墓所を継承している。二女が怜子。末子の肇子は俵家に嫁ぎ俵肇子として社会福祉活動家。


ゼノ・ゼブロフスキー (Zeno,Zebrowski 1891-1982.4.24) 
 ポーランド人。コンベンツゼノアル聖フランシスコ会修道士であり、コルベ神父と共に来日。キリスト教をベースに戦災孤児救済、蟻の町での奉仕活動など社会福祉活動に尽力。 東京大司教から「ゼノ神父」と名乗ることを許された。1981ローマ法王ヨハネス・パウロ二世が来日した際に謁見を許さる。享年90歳。



第78回 蟻の町のマリア 北原怜子 お墓ツアー


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