南秋田郡楢山牛島橋通町(秋田市楢山共和町)出身。河村豊吉、りよ(共に同墓)の長男。1900(M33)秋田県第一中学校(秋田高校)に入学したが、'02.5.2 重治郎が3年生になって間もない時に、胸に病があった母が39歳の若さで亡くなる。当時は弟の豊治(同墓)は11歳、三治(同墓)は7歳。その二年後、'04.11 一家は家を引き払って上京した。そのため、17歳であった重治郎は卒業まで後4か月であったが秋田中学校5年生の二学期で中退。
'06.7 独学で勉学に励み、検定試験で東京府小学校専科正教員免許(英語)を取得。'07.3 文部省施行の検定試験(文検)をパスして旧制の師範学校・中学校・高等女学校の英語科教諭免許を得た。この時、19歳8か月であった。当時、独学者の登竜門はこのレベルまでで、その上の旧制高校・大学予科教授への門は閉ざされたままだった。そこで重治郎はミッションスクールの東京・聖学院中学校(聖学院高校)の教諭となった。
'11 福井県立福井中学校(藤島高校)の英語教諭に転じる。13年間にわたり教鞭をとり、教え子たちからの人気も高く、石田和外(最高裁長官)、深田久弥(山の作家)、高田博厚(彫刻家)、榊原仟(心臓外科の権威)、中野重治(作家)ら多くの著名人も輩出している。またこの間、'20(T9)文部省が第1回高等学校教員検定試験を実施され、全国から30人の俊秀が挑戦し、重治郎が合格者6人のひとりに選ばれた。これにより、旧制高校・大学予科教授への道が開かれた。この時33歳であった。
'24 新設の横浜高等商業学校(横浜国立大学経済学部)の英語教授に招かれ就任。教授就任後間もなく、東京の研究社が編纂を急いでいた『新英和大辞典』(通称『岡倉英和』)の分担執筆を求められた。これが後に「英和辞典づくりの名人」と称されることになる初めての辞典編纂となる。'27(S2)携わった『岡倉英和』は刊行されて5年半で100版を超える人気で、他の辞典を圧倒した。
以後、重治郎が手掛けた英和辞典、英語教科書、英語参考書、自習書の類は、改訂版も含めて50点にのぼる。その中で、英和辞典の傑作が、三省堂から出版された『学生英和辞典』(昭和十年刊行)、『クラウン英和辞典』(昭和十四年刊行)で、どちらも重治郎がリーダーとして編纂したものである。『学生英和辞典』は中学初年生を対象とし、見出し語数が9650。出版と同時に指定辞書とする中学校が全国で相次ぎ、出版後三年で100版を重ねた。『クラウン英和辞典』は中学上級生対象とし、見出し語が28000。挿絵を多く取り入れ、出版と同時に空前の評価を受け、戦争の激化で昭和十八年に発行が止まるまでの四年間に、実に230版を数えた。
'44 戦況の悪化と英語教育にストップがかかったことに伴い、横浜高商を勤続20年で辞し、群馬県甘楽郡吉田村の福井中学時代の同僚教諭宅に疎開した。
戦後は、'46 私立善隣外事専門学校教授や明治学院大学、東洋英和女学院短期大学で講師をつとめる一方で、学習書づくりを行う。'54 改訂版『新クラウン英和辞典』を刊行し、販売部数は年々伸び続け、'60(S40)には年間67万冊を超えた大ベストセラーとなった。
晩年は東京から鎌倉の稲村ケ崎に移住。内臓癌のため東京渋谷の病院で逝去。享年86歳。死の数日前に三人の娘を枕元に呼び、自らの葬儀の指示をしたという。その際、色紙の表に日本語で「辞世 よく生き よく働き よく世に尽くした 河村重治郎」と書き、その裏に同じ意味の英文「In memoriam In lived well. In work I worked well. To the world I did some well. Jujiro Kawamura」と書いた。辞世の句は石に刻まれ自邸の庭に建立されたという。
死の前日、酸素吸入の管をはずさせ、「こんなものがあると、話し辛くてしょうがない」と言い、それまで口にしたことのない子供の頃の秋田の話をしたという。若き日の上京以来、一度も古里の秋田に帰郷する機会がなかったことが心残りであったようである。
小・中・高等女学校・師範学校の正教諭免許はもとより、旧制高校・大学予科の教授免許まで全て検定試験で取得した独学力行の鬼才である。また一冊の学術書も、一編の論文もない。これは英語学者ではなく英語教育者という信念に基づくものらしい。辞書編集の基本は「如何に読み易いか。辞書はひいて見るものではなく、ひいて読むものでなければ・・・」であり、それも「中学卒業までに辞書がきれいであることは、恥ずかしいことだ」と語っていた。