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かわもと きはちろう

川本喜八郎

かわもと きはちろう

1925.1.11(大正14)〜 2010.8.23(平成22)

昭和・平成期のアニメーション作家、人形美術家

埋葬場所: 多磨霊園合葬式墓地

 東京都千駄ヶ谷出身。文房具を商う裕福な家に生まれ、幼い頃から祖母と芝居見物をし人形作りを楽しんだ。
 1944(S19) 旧制横浜高等工業学校建築学科卒業。戦後、'46 東宝株式会社撮影所美術部に勤務し映画製作に従事。東宝争議に巻き込まれる。そんな折、劇作家の飯沢匡が編集を担当する「アサヒグラフ」「玉石集」の人形を使った社会風刺写真制作に関わり、初めてプロとして人形をつくった。東宝を解雇されたため、'50 フリーの人形美術家となる。飯沢匡に見いだされ、人形を使った出版物やCM製作に携わった。
 '51 飯沢匡、土方重巳らとグループを作り、「トッパンの人形絵本」などの人形を制作。アサヒビールのキャラクター「ほろにが君」や三ツ矢サイダーの「三ツ矢嬢」の人形化に携わり、同社のPR雑誌であった「ほろにが通信」の表紙に使われる。また、'53 飯沢匡、土方重巳、持永只仁、カメラマンの隅田雄二郎らと「人形芸術プロダクション」(NGプロ)を設立。日本で初めての人形アニメーション「ほろにが君の魔術師」の制作に参加。'54『三びきのこぶた』『あかずきんちゃん』『じゃっくとまめのき』『ぴーたーとおおかみ』などの出版に参加し、'57 『へんぜるとぐれーてる』まで、人形芸術プロダクション制作の下に、23冊が発行された。その他、ちびくろさんぼシリーズ、などの制作にも関わる。
 '58 飯沢匡らと人形を利用したCM製作会社「シバ・プロダクション」設立し、常務取締役に就任。アサヒビールやミツワ石鹸のCM、NHK「おかあさんといっしょ」のオープニングアニメ、『魔法のじゅうたん』のオープニングの人形アニメーションの制作に関わり、人形アニメーションへの注目を高めた。
 '63 シバ・プロダクションを退職し、チェコスロバキアのプラハに2年間留学して、人形アニメの巨匠イジー・トルンカに師事した。20代の頃、トルンカの作品「皇帝の鶯」に感動したことがきっかけであり念願を叶える。その後、欧州各国に遊学。
 帰国後は、'67 NHK教育「なにしてあそぼう」の人形美術担当。'68 人形アニメーション『花折り』制作。'70 アニメーション『犬儒戯画』制作。'71 NHK「おかあさんといっしょ」の「とんでけブッチー」の人形美術を担当。'72 アニメーション『鬼』制作し、毎日映画コンクール大藤信郎賞とメルボルン国際映画祭特別賞を受賞。また岡本忠成監督と「川本+岡本パペットアニメーショウ」を東京をはじめ各地で開催。'73 アニメーション『旅』制作。同年から3年間、NHK教育「ヤンヤンムウくん」の人形美術担当。'74 カットアウトアニメーション『詩人の生涯』制作。'76 NHK「おかあさんといっしょ」で「トム・チャム・ゴロンタ」の人形美術担当。同年、人形アニメーション『道成寺』制作。'79 人形アニメーション『火宅』制作し、バルナ国際アニメーション映画祭グランプリを獲得。'80 人形アニメーション『蓮如とその母』制作。'81 演劇集団円の公演「おばけリンゴ」の舞台衣裳プランを担当。以後舞台衣裳にも関わって行くことになる。'82 NHK人形劇「三国志」人形美術担当。
 日本を代表する人形アニメーション作家として日本伝統の能・狂言を題材とした伝統的な様式美と独自の表現を盛り込んだ作品を発表する一方、NHK人形劇の人形美術を担当し多くの作品を手掛け、人形劇を重要な表現ジャンルとして確立した。これらの功績により、'88 紫綬褒章受章。
 海外でも活動し、'88 中国人形アニメーション「不射之射」を監督して上海で制作。アニメーション「セルフポートレート」(オムニバス作品)制作。'89(H1)日本チェコ合作人形アニメーション「いばら姫またはねむり姫」監督してチェコ、プラハで撮影。また同年、劇団影法師と揚州人形劇団との日中合作大型人形劇「三国志」の人形美術も担当した。
 '91 岡本忠成監督の遺作アニメーション「注文の多い料理店」を監修して完成させる。'93 NHK人形歴史スペクタクル「平家物語」人形美術担当。'95 勲4等旭日小綬章。'97 新宿三越美術館にて「川本喜八郎人形美術展」開催した。'98 NHK BS「世界わが心の旅 川本喜八郎 チェコ・人形の魂を求めて」に出演。'99 三越名人会「人形の魔術師川本喜八郎の世界」に出演。2000 渋谷区立松濤美術館にて「川本喜八郎展」を開催(第一部は三国志・第二部は平家物語)。
 2002 連句アニメーション「冬の日」総合監督として制作し、翌年、パリ市大勲章(銀賞)受章。またこの作品は文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞、デジタルコンテンツグランプリ芸術賞、毎日映画コンクール大藤信郎賞も受賞(2004)。2004-05 人形アニメーション「死者の書」を制作し、全国16都市で上映された(2006)。これが最後の作品となった。
 2007 長野県飯田市本町に「川本喜八郎人形美術館」が設立され、初代館長になる。その他、日本アニメーション協会会長(1996-2010)、日本人形玩具学会代表委員(2006-2008)を務めた。肺炎のため逝去。享年85歳。没後、2012 渋谷ヒカリエに川本喜八郎人形ギャラリーオープンした。
 「人形はひとことでいえば神、お仕えするもの」「人形は人間のミニチュアではない。人形には人形の世界がある」という名言がある。

<講談社日本人名大辞典>
<川本喜八郎の世界 − 人形劇・能・人形アニメーション>
<川本喜八郎 Official Website「川本喜八郎とは」「墓参り」>


*川本家の墓所は元々多磨霊園内に和型「川本家之墓」があり、川本喜三郎も埋葬された。2014(H26)ご遺族の意向で墓じまいをするにあたり、川本家に埋葬されていた喜八郎ら全ての遺骨は合葬埋蔵施設に移された。

多磨霊園合葬埋蔵施設  クリックで拡大(←画像をクリックで拡大)

*多磨霊園正門入口左手側にある多磨霊園合葬式墓地の横に建つ合葬埋蔵施設墓誌の「平成二十六年」(右から14番目の一番下)に川本喜八郎の名前が刻む。墓誌より、川本家に埋葬されていた祖父母、両親、兄弟等の全員が合葬墓地に葬られたことがわかる。なお、墓誌の刻み順より、川本金太郎、すず、ふく、金三郎、秀夫、和、澄子、金次郎、むゑ、市太郎、虎雄、庄三、とも、喜八郎の計14名が改葬されたことがわかる。


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