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かわじ としのり

川路俊徳

かわじ としのり

1880.4.24(明治13)〜 1975.12.22(昭和50)

明治・大正期の海軍軍人(少将)

埋葬場所: 18区 1種 3側

 岡山県出身。1900(M33)海軍機関学校卒業(7期)。千代田乗組、敷島乗組、比叡乗組、水雷術練習所学生 呉水雷団附、暁乗組、明石分隊長心得を経て、'04.7.13海軍大機関士となって明石分隊長に就任した。以降、機関術練習所教官、分隊長、砲術練習所教官、第1潜水艇隊附となり、大尉となって、'06.2.12よりドイツ駐在、少佐に昇級して、'10.10.21帰朝。
 '11.4.15海軍大学教官、同.5.11艦本出仕(四部)、'13.12.1(T2)中佐になり、'14.5.27横工廠造機部部員、同.9.10造船監督官、'15.5.5摂津機関長に任ぜられた。'16.7.1海軍大学教官を務めながら、軍令部出仕(二班三課)、'17.6.9 機関局局員を兼ねる。同.12.1大佐に昇進し、'18.4.1軍令部出仕 兼 海軍省出仕 兼 海軍大学教官。同.12.1機関校生徒科長を務めた後、'19.6.10より欧米各国に出張、'20.8.12帰朝し、『独逸ノ工業ニ就テ』を大日本国防義会会報に投稿した。
 同.10.5軍令部出仕 兼 海軍省出仕、同.12.1機関局局員を歴任し、'22.11.20第一艦隊機関長となる。同.12.1少将に昇格して、'23.12.1呉鎮機関長、'24.12.20呉艦船部長に着任した。'25.4.15軍令部出仕、同.11.20待命、同.12.16予備となった。イリス商会支配人になり、ドイツ産業合理化を視察し研究発表をした。'38.4.24(S13)後備、'41.4.1予備、'43.4.24退役する。享年95歳。

<帝国海軍提督総覧>
<日本海軍将官総覧など>


*墓石は和型「川路家之墓」。墓石左右が墓誌になっているが、墓所内に墓誌もある。川路俊徳は墓石の左面と墓所内墓誌の両方に刻みがある(墓石は俊徳で終わり、墓誌は俊徳から始まる)。また墓所内に「川路家 先祖代々之霊」と刻む寝プレートがある。墓石の建之者は川路俊徳と川路俊次であり、昭和二十九年七月に建之。戒名は俊翁鳳徳居士。行年は96才と刻む。

*墓石の刻みより、初代 川路庫蔵(文延1歿)、2代目 川路寛一郎(M8歿)、3代目 川路鍾造(T7歿)の名が刻む。俊徳は4代目にあたると思われる。


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