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かわい よしと

河合好人

かわい よしと

1900.9.6(明治33)〜 1956.10.7(昭和31)

昭和期の鉄道官僚、実業家

埋葬場所: 12区 1種 10側

 京都府與謝郡宮津町出身。河合恒蔵・なつ(共に同墓)の長男として生まれる。河合家は宮津範士の家柄。母は奈良高等女子師範を出た武家出身。 妹は「近代の超克」を唱えた哲学者の高坂正顕に嫁ぐ。二人の子供である国際政治学者の高坂正堯や、憲法問題懇談会委員長の高坂節三は甥にあたる。
 四高を経て、東京帝国大学法学部卒業し、鉄道省に入省。同期に後に首相になる佐藤栄作がいた。 鉄道省では様々な職歴を重ね、勅任官に進み、名古屋鉄道局長や東京鉄道局長を歴任した。国家多難の際、一意奉公の誠を效し、功に依って正4位に叙し、勲3等を授けられた。
 退官後は、東京急行電鉄株式会社専務取締役、箱根登山鉄道株式会社取締役社長(後に会長)、日本海陸運輸株式会社社長などに就任し、豊富な経験を生かして観光、陸上交通、通運、港湾運送、海運等運輸事業のあらゆる部門に才腕を発揮した。著書に『鐵道會計』(1934)がある。病を得て逝去。享年56歳。

<河合好人頌徳碑などより>


墓所 頌徳碑

*墓石は和型「河合家之墓」。右側に河合好人の「頌徳碑」が建つ。碑の撰は日本国有鉄道総裁の十河信二。左側に墓誌が建つ。 墓誌の前面には、河合家祖先は源氏より出で、代々宮津藩の士族である旨が刻む。 また、先祖の墓は京都府宮津町の智源寺に在ったが、河合恒蔵の時代に佛祖法統の正脈たる顕本法華の正法に改宗することになり、円寂に際し、新たに昭和十二年十月に多磨霊園に建てた経緯が詳細に刻む。 墓誌の裏面は河合恒蔵以下の代々の戒名、俗名、没年月日が刻む。河合好人の戒名は本常院殿厳道日光居士。妻は登美。


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