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かたの さとる

交野 瑜(片野十郎)

かたの さとる(かたの じゅうろう)

1835(天保6)〜 1873(明治3.11.14)

幕末の長州藩勤王志士、明治期の陸軍軍人(大佐)

埋葬場所: 12区 2種 9側

 長州藩(山口県)出身。はじめは片野十郎左衛門と称す。勤王志士としての名は片野十郎。明治以降より交野瑜を名乗った。号は御狩、変名を山本保助。
 杉百合之助(吉田松陰の実父)組に属する下級武士であった24歳の時、安政の大獄に連座した吉田松陰が江戸に送られることとなった。藩はせめてもの好意として片野と和田小伝次を護送車の列に加わえさせた。松陰は罪人として護送されているため、筆や紙を持つことが許されなかったので、道中、松陰は駕籠の中から吟じ、それを片野は書き取った。江戸に到着した一か月後にはすっかり二人とも松陰に感化を受けた。護送途上および江戸に着いてから詩歌八十二首を集めた『縛吾集』(ばくごしゅう)、『涙松集』(るいしょうしゅう)が生まれている。
 1863(文久3)下関戦争後に藩に起用された高杉晋作が下関で奇兵隊を結成するや和田とともに馳せ参じた。奇兵隊では参謀となる。同.8.16下関の教法寺において長州藩諸隊の奇兵隊(身分を問わず農民や町人が主体)と撰鋒隊(藩士から成る藩の正規部隊)との間に軋轢が生じ、衝突して撰鋒隊士が斬殺された「教法寺事件」(きょうほうじじけん)が起こる。この責任をとる形で高杉晋作は結成から三か月程で騎兵隊総督を罷免され、以後は河上弥市と滝弥太郎の二人がその後任となった。
 1865(元治2)幕府によって四境戦争(第2次長州征伐)が勃発するも幕府軍を圧倒する活躍をし完全勝利をした。1866(慶応2)薩長同盟が締結し、翌年、騎兵隊参謀として京都に入り、西郷隆盛、山田顕義らと討幕を画策した。同.10.14(1867.11.9)大政奉還、同.12.9(1868.1.3)王政復古の大号令が発せられる。これにより奇兵隊ほか長州藩諸隊は新政府軍の一部となり、旧幕府軍との戊辰戦争では東北に出兵し功を上げた。
 戊辰戦争後は、4年間、東京府少参事を歴任。1870(M3)三好重臣、福原実らと新政府軍の陸軍大佐を任ぜられるが、同.11.14 病のため東京で逝去。正6位 従5位。享年38歳。長州藩が江戸で藩主や家臣が死去した際の菩提寺としていた「青松寺」(せいしょうじ:東京都港区愛宕二丁目にある曹洞宗の寺院)に葬られたが、後に多磨霊園に改葬。

<明治過去帳:物故人名辞典>
<幕末維新人物総覧など>


墓所

*墓所には3基。正面左の和型「故 陸軍大佐 従五位 交野瑜 墓」、左面に没年月日が刻む。正面右の和型「片野家累代納骨」、左面に「大正十一年五月五日」と建之した年代が刻む。墓所手前左側に「村田先祖之墓」が建ち、裏面が江戸から明治初期に亡くなった村田姓の名が刻む墓誌となっている。

※「片野家累代納骨」墓石が建之された大正11年は、まだ多磨霊園は開園されていないため青松寺に建之されたと推測する。多磨霊園開園された半年後の大正12年9月1日に関東大震災があり、羅災した寺院や都市開発などにより、都内の寺院の檀家墓の用地を多磨霊園内に寺院専属区として用意。それに従った14か寺のひとつに青松寺があるため、建之した翌年にこの地に改葬したと推測する。

※2022年8月、墓所地が更地になっていたことを確認しました。後継者がいなくなるため「墓じまい」をし小平霊園の合葬式埋葬施設に移されました。「墓じまい」の場合は施設変更制度というのがあり、多磨霊園の合葬施設は既にいっぱいであるため、小平霊園か八柱霊園の合葬施設に無料で納骨ができます。この制度を利用されたと推察します。なお「歴史が眠る多磨霊園」は故人を通して歴史を学ぶコンセプトであるため、ページは残します。


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