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かたくら さんぺい

片倉三平

かたくら さんぺい

1890.2(明治23)〜 1977.3.29(昭和52)

大正・昭和期の実業家(片倉財閥・日東紡績)

埋葬場所: 9区 1種 10側

 長野県諏訪郡川岸村(岡谷市)出身。祖父は片倉財閥の始祖の片倉市助。父は片倉光治、3男として生まれる。シルクエンペラーと称された二代目 片倉兼太郎は伯父であるが、その娘(2女)の かず と結婚。1918(T7)分家して一家を創立する。
 長野県立諏訪中学校を経て、東京高等蚕糸学校を卒業。その後、片倉財閥の一族として片倉合名会社社員に入る。片倉合名会社北陸監督、片倉越後製糸株式会社社長、片倉共栄製糸株式会社社長、岩手県是製糸株式会社社長など、片倉傘下の様々な企業の役職を兼務した。
 '21 片倉傘下となっていた福島紡織が改組、'23 新たに福島県郡山市に日東紡績が設立され専務取締役となり、初代社長に就任した。渡米し持ち帰った合成繊維を参考に同等のものを開発させ、本邦のステープル・ファイバーの先駆的開拓者となる。その後もレーヨン(スフ)やガラス繊維など新素材の開発を積極的に進めた。'37(S12)会長。
 1930年代に統制経済体制が進むと日東紡績も共同組合に改組となり、片倉はその代表者であったが、それと並行して統制団体である日本スフ工聯の初代理事長などの役職も務めた。
 戦後、進駐軍から建物が返還され、福島県郡山市の商工会議所復活運動が始まり、前任の原孝吉から引き継ぎ、'46.12.22 創立総会開催において、第8代 郡山商工会議所会頭に就任した。これに伴い会議所を社団法人に組織変更をする。会頭二年間の在任中に、郡山観光協会を設立、開成山競馬場の設立するなど尽力した。
 '58.11 長野県松本市の松本松南高等学校理事長に就任し、死去するまでその職を務めた。'65 日東紡績会長の職を退任。絹糸生産の基礎を築き、レーヨン(スフ)、ガラス繊維の工業化に尽力した。東京の自宅にて逝去。享年87歳。没後、'93(H5)日東紡績創立70周年を記念して郡山市の富久山事業センターで創業者である片倉三平の胸像の除幕式が行われた。

<講演第339輯「スティプルファイバァに就て」登壇者略歴>
<郡山商工会議所 会議所のあゆみ><人事興信録>


墓所

*墓所には正面二基並ぶ。正面に五輪塔。裏面「昭和十七年三月吉日建 片倉三平」と刻む。右に和型前面「智勝院聖眞清芳居士」が刻む、片倉三平の長男の片倉清雄の墓石が建つ。裏面「昭和二十二年十月 施主 片倉三平 建之」。右面「俗名 片倉清雄 昭和二十年五月九日歿 行年二十六歳」。左面には片倉清雄の略歴が刻み、最後に「昭和廿貳年五月九日 日東紡績株式会社社長 内藤圓治 撰」と刻む。墓所左側に墓誌が建つ。片倉三平から刻みが始まり、戒名は照德院殿三宝寿光居士。妻は かず(M32.10-S62.10.5)、戒名は淳徳院殿雅寶壽良大姉。二女の淑子(T12.6-H13.5.2)の夫、平松信武(H12.10.7没)が刻むため、墓所は平松家が継承。なお墓誌には片倉絹子(当歳 S56.12.17歿)も刻む。

*片倉三平の妻は かず。かず は片倉三平の伯父でシルクエンペラーと称された二代目 片倉兼太郎が父であり、二女。よって従兄妹関係でもある。二人の間に1男2女を儲ける。長女は乃壽(T8.5生)。長男の清雄(T9.8.14生:同墓)は24歳の若さで病没(下記略歴)。二女は淑子(T12.6-H13.5.2)。淑子は平松信武に嫁ぎ、二人とも同墓に眠る。


片倉清雄
1920.8.14(大正9)〜1945.5.9(昭和20)
片倉三平の長男
 兵庫県姫路市出身。片倉三平の長男。片倉製絲工場内にて生まれる。幼少期は福島市や郡山市にて育つ。安積中学校を経て、慶應大学に進み、1943.4(S18)慶應大学政治学部を卒業。卒業後、中島飛行機会社三鷹研究所に入社。しかし大東亜戦争により、'44.2.1 応召。松本第五十部隊に入隊したが、五月病になり除隊。東京に帰り、父母の許しを得て病気療養に入る。戦局の不利と共に空襲に晒されたため、東京の自宅を去り熱海の別荘に疎開。だがそこも安住できず、那須の別荘に避難。この頃、父が社長を務める日東紡績の富久山工場が空襲で壊滅し、従業員の多数の死傷者を出す惨事が起こる。悲壮に沈む父に同情激励し、自らも力になりたいと鼓舞するも、同.5.9 病は回復せず、呼吸困難で苦闘し、最後の療法も効果出ず。最期は父母を始め看護の人、憂国済民の哀情に頷き、一人一人の健康を祝福し、難局の突破を祈願して逝去。享年24歳。

<墓誌より>


【片倉財閥】
 片倉財閥は製糸業から発展した財閥であり、戦後のGHQによる財閥解体で解散となる。
 1873(M6)初代の片倉市助が長野県諏訪郡川岸村(岡谷市)で座繰り製糸を開始。シルクエンペラーと称された二代目の片倉佐一(後に二代目 片倉兼太郎)の手により、製糸業から発展。1895 片倉組を設立し、東京の京橋に進出。業容を拡大し一財閥を形成していった。
 片倉市助の長男は初代 片倉兼太郎。二男は片倉光治。三男は今井五介。4男が片倉佐一であり後に二代目 片倉兼太郎になる。その息子の脩一が三代目 片倉兼太郎。片平三平は片倉光治の三男であり、二代目 片倉兼太郎の娘婿。兄で二男の片倉武雄は片倉江津製糸社長。弟で四男の武井方介は武井覚太郎の娘婿で片倉工業取締役。
 片倉財閥の製造部門においては、祖業ともいえる製糸業を主力としていた。片倉組を経て片倉製糸紡績となり、長野県で製糸業を営む尾澤福太郎の尾澤組と経営統合を果たすなど、会社の規模が急速に拡大した。多数の関連会社を有するようになり、最終的に日本国内の製糸所のうち7割以上を手中に収めていた。さらに、官立富岡製糸場の流れを汲む原善一郎の原富岡製糸所が、独立会社である富岡製糸所に移行すると、その筆頭株主となって経営権を握り、最終的に片倉工業富岡工場とした。
 紡績業にも進出しており、安藤與惣次郎の福島精練製糸に端を発する日東紡績を傘下に収めている。なお、日本で初めてガラス繊維やロックウールの工業化に成功したことから、主力商品が繊維製品からガラス・土石製品に変わっている。
 化学工業にも進出しており、養蚕用桑園の肥料を製造するため日支肥料を設立し、片倉米穀肥料、片倉化学工業を経て八洲産業となったが、財閥解体により片倉工業から切り離されることになった。その後、社名を片倉肥料、片倉チッカリンとするなど、切り離されて以降も「片倉」の名を残していたが、現在では全国農業協同組合連合会が筆頭株主を務める片倉コープアグリとして営業を続けている。
 金融部門においては保険業に進出。生命保険会社としては、片倉生命保険を設立。1942 日産コンツェルン傘下の日産生命保険に吸収合併されることになった。
 片倉財閥や片倉家を流れをくむ現存企業としてはこの他、片倉興産が「かたくら諏訪湖ホテル」(長野県諏訪市)を経営。また教育団体は、私立片倉青年学校、成均学園高等女学校、片倉学園工農学校、松本戊戌商業学校(松本商業学校)の財団法人片倉学園を運営した。



第524回 財閥解体指令を受けた 片倉財閥 日東紡績 初代社長 片倉三平 お墓ツアー


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