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かさい けんじ

河西健次

かさい けんじ

1868.2.24(慶応4)〜 1927.5.14(昭和2)

明治・大正期の医師

埋葬場所: 1区 1種 6側

 信濃(長野県)出身。東京帝国大学卒。軍医として、日清・日露戦争に従軍した。 1908(M41)満鉄衛生課長兼大連医院長となり、1912(T1)南満医学堂(のちの満州医大)初代堂長を兼任。 のちに東京新宿に武蔵野病院を開いた。

<森光俊様より情報提供>


*墓石正面は「河西健次之墓」。右面に「昭和2年5月14日病卒 享年60」と刻む。


【正露丸】
 正露丸は日局クレオソートを主成分とする民間薬で、下痢、消化不良などの際に胃や腸の調子を整え、また歯髄炎による虫歯の痛みにも効能がある、非常に一般的な薬品である。
 日清戦争で不衛生な水源による伝染病に悩まされた陸軍は、感染症の対策に取り組んでおり、陸軍軍医学校の教官であった戸塚機知三等軍医正が、1903(M36)クレオソート剤がチフス菌に対する著明な抑制効果を持つことを発見した。 この発見を基に、日清戦争に従軍経験があった河西健次が引継ぎ、強力な殺菌力を持つ「クレオソート丸」の開発に成功した。 1904日露戦争が勃発したこともあり、陸軍では兵士に対して、水あたり、食あたり、腸チフス、赤痢等の予防薬として大量に配布し、連日服用させた。 しかし、当時の価値観として、予防的投薬という概念が浸透しておらず、特異な臭気を放つ得体の知れない丸薬は敬遠されがちであった。 そこで軍首脳部は一計を案じ、その服薬を「陛下ノゴ希望ニヨリ」と明治天皇の名を借りて奨励することとした。 これにより、兵士の間では、戦場の胃腸薬として浸透し、本来の名前である「クレオソート丸」から、「露西亜を征する丸薬」、すなわち「征露丸」という俗称として親しまれるようになった。 連日の服用の成果で、下痢や腹痛により戦線を離脱する兵士は激減したといわれる。
 征露丸の止瀉作用や歯髄鎮静効果は、帰還した軍人たちの体験談として伝えられ、「ロシアを倒した万能薬」として、多くのメーカーから競い合うように製造販売され、日本独自の国民薬として普及していった。 第二次世界大戦終結後、国際信義上「征」の字を使うことは好ましくないとの行政指導があり「正露丸」と改められた。 なお、いまでも「ラッパのマークの<正露丸>」と宣伝されているが、そのラッパのマークも、ロシアに対する進撃ラッパが由来である。


*当時の陸軍は「征露丸」を胃腸薬としての効能のみならず、脚気予防に対しての期待をしていた。 これは、脚気菌なるものを想定しており、その菌を撲滅できるのではないかという期待からである。 しかし、脚気菌なるものはあるはずもなく、日露戦争時では脚気による死者を多数出す結果となった。 一方、脚気はビタミン不足によるものであることをいち早く想定し、食料にビタミンを補充できる食べ物を取り入れていた海軍では、日露戦争で脚気による死者を一人も出していない。

*陸軍よりも一年早い1902大阪の薬商である中島佐一が正露丸を開発し販売を開始したという説もある。 この中島より権利を得た大幸薬品は戦後、一時、商標登録されたこともあったが、裁判の結果、現在はすべて無効となっており、商標権を持たない会社でも「正露丸」等の商品名を使用することが認められている。 よってラッパのマークでない正露丸も多数存在する。なお、大幸薬品の正露丸はラッパのマーク。 和泉薬品工業株式会社のイヅミ正露丸はひょうたんのマーク。 奈良県の日本医薬品製造株式会社だけは現在も一貫して征露丸の名前で販売を続けている。


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