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かみや しょうたろう

神谷正太郎

かみや しょうたろう

1898.7.9(明治31)〜 1980.12.25(昭和55)

大正・昭和期の実業家(トヨタ自動車)

埋葬場所: 15区 1種 9側

 愛知県知多郡横須賀町(東海市)出身。1917(T6)名古屋市立商業学校卒業。三井物産に入社、ロンドン支店勤務などを経て、7年後に退職。 '25ロンドンで鉄鋼問屋「神谷商事」を設立。日本やインドへ鉄鋼の輸出を行い経営は順調であったが、炭坑者のストライキ等により、'27(S2)閉鎖して帰国した。 '28英語が堪能であったことから、日本GM(ゼネラルモータース)のスカウトを受けて入社。日本GMの販売広告部長の時に、地元愛知で自動車の生産に乗り出す(株)豊田自動織機製作所の豊田喜一郎に請われて、役員待遇で自動車部の自動車販売責任者として入社。
 '37豊田喜一郎の自動車国産化計画に販売面で参画し、トヨタ自動車工業(株)発足に際し取締役販売部長、'46常務取締役就任した。 販売組織の整備・強化をはかり、販売体制の基礎を構築。'50独立した販売部門を統括し、トヨタ自動車販売(株)を設立、初代取締役社長に就任。 自動車の購入法として当時としては画期的だった「定価販売」「月賦販売」を取り入れる。 販売店についても、これまでの「1県1社のフランチャイズ」から「マルチチャンネル」への移行を掲げ、'53トヨタ直営の東京トヨペット(株)を設立、取締役会長に就任。 名古屋郊外にトヨタ自販の資本金10億円の半分近くになる巨額な投資をし、中部日本自動車学校運転教習所や日本最大級である中部自動車整備学校(専門学校トヨタ東京自動車大学校 等)を設立。 また、純正オイルブランド「キャッスル」の創設のため、米国・スタンダード・バキューム社(エクソンモービルの前身)との提携に携わった。 更に、カローラの開発に際して、営業側から日産サニーよりもエンジン排気量を上回らせる要望を出し、サニーよりも100cc上回る1100ccの新型ファミリーカーのカローラを開発させて、大ヒットに結び付けている。
 神谷は常に「運転免許者を増やすこと」を念頭に、月賦制度を完備すること、全販売店をアフターサービス拠点にすること等を地道にやっていけば、必ず日本にもモーターリゼーションが開花すると考えていた。 全国の完璧な販売網づくり、綿密な海外市場の開拓計画、アフターサービスの完備、セールスマン教育、自動車ローン、自動車保険など、“車の売れる環境づくり”を開拓した。 内外の販売網を確立してトヨタグループの基盤強化に貢献し、トヨタの販売最高責任者として、常にモータリゼーションの先手を読んで業界をリード、トヨタディーラーの礎を築き上げ「販売の神様」と称された。
 '56〜'57通商産業省顧問。'60藍綬褒章受章。'61中京テレビ放送株式会社(名古屋放送(株))を設立に伴い取締役社長を兼任した。 '62紺綬褒章受章。'63トヨタ自動車工業株式会社監査役。'67(株)日本自動車工業会を設立に伴い理事(〜'74)。 同年、輸出振興内閣総理大臣表彰受賞。'68勲2等旭日重光章受章。'72ジャパンインドネシアオイル株式会社を設立に伴い取締役社長に就任。'73.11.3勲1等瑞宝章受章。'75.12会長、'79.6名誉会長を歴任した。享年82歳。

<コンサイス日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典など>
<森光俊様より情報提供>


*墓所正面「神谷家之墓」。右側に墓誌があり、従三位 勲一等 神谷正太郎の名が刻む。戒名は豊聚院殿観慶正鴻大居士。名古屋市昭和区村雲町浄元寺より平成十二年十月二十九日に六名改葬した旨の刻みもある。

*長男の神谷正一(同墓)は自動車部品付属品卸業のジプロ社長(後、会長)を務めた。

*豊田喜一郎の墓所は名古屋市東区にある北山墓地。同墓にはトヨタ自動車の礎であり、喜一郎の父の豊田佐吉も眠る。


【神谷の販売哲学】
 戦後早々、発売した自動車についての苦情が、販売店から殺到したときのことである。 ラジエータの水洩れが激しく、走ってもすぐに自動車はエンストを起こしてしまう。そこで神谷は、製造部門の最高責任者でもある豊田喜一郎に、「バケツをぶらさげて走らなければならないような車はとても売れません」と、意見した。 この言葉に、喜一郎はやはり技術者としての誇りを傷つけられたのであろう、「君が売るのをやめるというなら、俺も車をつくるのをやめた」といって非常に立腹する。 その場は神谷が謝って事なきをえたが、このエピソードから神谷は、“相手の立場に立って物事を考え、行動する”を持論とした。 後に『一に需要家(ユーザー)、二に販売店(ディーラー)、三に製造者(メーカー)の利益を考えよ』の販売哲学の根本を成す考えを確立した。
 神谷はあらゆる名言を残している。ユーザーに対しては、『どの種の困難であれ、 これを乗り越えていく最大の武器が「誠意」である』。 ディーラーに対しては、『同じあやまちは再びくり返すな』。そして、経営者としては、『経営者には六段階の時期がある。 第一の段階は、社長個人でお金を儲けようとする時期。第二の段階は、会社として利益を生み、蓄積を考える時期。 第三の段階は、売上高や社員を含めて、会社全体を大きくしたいと願う時期。第四の段階は、人や組織作りに一生懸命になる時期。第五の段階は、業界や、世の為、人の為に尽くす時期。第六の段階は、死んだとき悪口をいわれないように努める時期』。


【日米経済摩擦の遠因をつくった神谷】
 1955(S30)神谷は、戦後二度目となる訪米をした。「五年前に来た時には見当たらなかった小型車がわがもの顔で走り回っている。 ・・・小型車市場なら我々も食い込むチャンスがあると直感的に感じた」。帰国後、輸出に消極的な役員たちを説得し、1957.10アメリカ進出の拠点となる米国トヨタ自動車販売が設立した。
 敗戦によって出直しを強いられた日本の自動車産業が、上向くきっかけとなったのは他産業と同じく、朝鮮戦争の勃発による特需景気だった。 しかし、自動車産業における日米の差には、経済力、技術力、総合力など、どの面にも雲泥の開きがあった。 それが、神谷が直感した小型車米国輸出は爆発的な飛躍を遂げる。1980(S55)ついに自動車の生産台数で日本がアメリカを追い抜いて世界一になり、アメリカにおける日本車のシェアが20%を超えたのである。 同時に、この事実は、日米経済摩擦の引き金を引いたことになり、これ以後、日本車は輸出の自己規制をせざるをえなくなる。 いずれにせよ、アメリカの国民性を象徴し、その経済的バックボーンであった自動車が、日本の小型車によってその地位を奪われたことは、歴史に残る画期的な出来事であった。なお、その1980年に神谷正太郎は亡くなった。

<Who's Who 昭和を拓いた100人>


【「トヨダ」が「トヨタ」になった理由】
 現在のトヨタ自動車の創業者は豊田佐吉であり、よみは「とよだ さきち」である。同社の母体は「豊田自動車織機製作所」(とよだじどうしゃしょっきせいさくじょ)の「豊田」は、創業者の名前をを取ってつけられ「とよだ」と読む。 1933(S8)産声を上げた同社は「トヨダ」と名乗るはずだった。事実、'35「A1型」試作車を経て発売された「AA型」乗用車には、「トヨダ号」の名称が与えられ、六角の亀甲形の中に「TOYODA」と記された商標の登録も済ませていたのである。それなのになぜ、濁点のない「トヨタ」になったのか?
 '36.7.5発売を控えた「トヨダ号」のマークを懸賞募集した。応募は2万700点にのぼり、一等に選ばれたのが、「丸にトヨタ」マークだったのである。 むろん応募の条件には、「マークにトヨダと表示すること」という項目があった。だが、このマークを作った美術図案家の中島種夫は、あえて濁点のない、「トヨタ」と表記してきたのだった。 応募条件を満たしていないこの作品が選ばれたのは、他の応募作にはないスマートさが捨て難かったからだが、ほかにも、姓名判断の視点から見て、「トヨダ」の十画は発展性がないのに対し、「トヨタ」の八画は末広がりで縁起が良いとされたことがある。 また、同社がある愛知県の県庁所在地・名古屋の市章は「○に八」で、「八」に縁があること。さらに、古来、日本語の表記では濁点を付けなくても濁って読むことがある、などの理由からだった。
 「○にトヨタ」のマークは、それほど選考委員の支持を得たのである。こうして翌年に、このマークが商標登録され、全国各地の販売店名も「トヨダ」から「トヨタ」に変更。 そして、同年、母体から分離独立するに当たり、同社の社名も「トヨタ自動車工業」となったのである。

<有名企業社名とマークの秘密>


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