香川県綾歌郡坂出町(坂出市)出身。1910(M43)東京帝国大学政治経済科を卒業し、同年台湾に渡り、台湾総督府土木局工務部事務官となる。
'18(T7)明石元二郎が台湾総督に就任した際に秘書官兼参事官に任ぜられ、明石総督の側近として活躍。ベトナム、アフガニスタン、トルコなどに派遣され、その視察した報告資料が残されている。明石総督が行った台湾電力設立し水力発電事業の推進、鉄道貨物輸送の停滞を解消するため新たに中部海岸線鉄道と東西横貫道路の開設、公設質舗制度の実施、日本人と台湾人が均等に教育が受けられるよう法を改正して台湾人にも帝国大学進学の道を拓き、台湾最大の銀行である華南銀行を設立など多くの業績を残した際、それらの事業の明石の側近として携わった。また八田與一が嘉南平原の洪水対策のために計画した嘉南ダムの建設の際に台湾総督府の年間予算の3分の1以上にもなったその建設予算を獲得することに尽力した。'19.10.26明石元二郎が任期中に福岡にて病没した以降もこれら事業を引き続き支えた。
'22(T11)台湾総督府専売局庶務課長に就任。'24休職となり、'26総督府を退職した。'28(S3)台湾赤十字社の理事長に任命される。また神道を広める運動として台湾維新社を創設。悪性心臓麻痺で逝去。享年50歳。日本人と台湾人の区別なく多くの関係者が死を悼み、その能力と識見が失われたことを嘆いた。歿後すぐに鎌田正威の墓碑建設に対する寄付が募られ、翌'36.8.8乃木希典の母親や明石元二郎が眠る台北の日本人共同墓地の台北三板橋墓地にて「故鎌田正威氏奧都城建碑祭」が行われた。
*墓所には墓石が2基建ち、左側に和型「鎌田家之墓」、右側に和型「鎌田正威墓」が建つ。「鎌田正威墓」の左面には「明治十八年八月七日生 昭和十年八月八日歿 享年五十一」と刻む。裏面には「昭和十一年八月八日之ヲ建ス」、右面には「天降りして君をといきせ 日の本を 忍の鎮と家の●もりしこ 克彦てる子」が刻む。「鎌田家之墓」の裏面には「昭和五十五年十一月 鎌田明元 建之」と刻む。
*台湾が日本統治時代につくられた日本人共同墓地の台北三板橋墓地は太平洋戦争で取り壊され、現在は台北市の林森・康楽公園となっている。その公園に二つの鳥居のみが現存しており、大きい鳥居が明石元二郎、小さい鳥居が鎌田正威であるとされている。
*妻の初枝(1889.2.24-1960.11.30)は旧姓を賴(らい)と言い、頼山陽(らい さんよう)の直系の曾孫にあたる。頼山陽は江戸時代後期の儒学者、陽明学者、歴史家、思想家、漢詩人、文人で、著した『日本外史』は幕末の尊皇攘夷運動に影響を与えベストセラーとなった。墓は京都市東山区・長楽寺にある。
*明石元二郎の墓は遺言により台北市の三板橋墓地に埋葬されたが、1999(H11)台北県三芝郷(新北市三芝区)の福音山基督教墓地へ改葬された。また生誕地の勝立寺には遺髪と爪を収めた墓がある。