伊豫国松山(愛媛県松山市)出身。門田正経とも。松山藩士の門田正業の二男。兄は政治家・教育者の白川福儀。
松山中学校では草間時福に影響を受ける。卒業後上京し、福澤諭吉の門に入り慶應義塾で学ぶ。翻訳などに従事後、「朝野新聞」で新聞記者となる。自由民権論を果敢に唱えた活動家でもあった。また国友会に入り「山陰新聞」で執筆。公共社に入り地元の愛媛で一年間「海南新聞」で活動。1888(M21)矢野文雄の推挙により「大阪毎日新聞」の創立に参加し入社、主筆・編集主幹を務めた。
この間、稲垣満次郎らと南洋を視察し、『南洋移民論』を執筆、海外移民を奨励する。わが国の海外発展を提唱し、日清戦争で台湾併合を主張。1898 桂太郎が台湾協会をつとめている時に幹事となり、会務の中枢を握る。1900 重要事業である専門学校の立ち上げに尽力し、台湾協会学校の創立と同時に幹事を兼務。多忙な桂校長に代わり、学校経営、学生指導を任され、'09 幹事長に就任した。
台湾協会学校は、1900.9 和仏法律学校(法政大学)仮校舎にて開校し、'01.11 小石川区茗荷谷に新校舎を建設、移転開校。'03.7 第一回卒業式挙行。'04.4 台湾協会学校を台湾協会専門学校と改称。'07.1 台湾協会は東洋協会と改称、校名も東洋協会専門学校となり、これに伴い幹事長に就任。'09.3 東洋協会専門学校同窓会(拓殖大学学友会)の設立に伴い初代会長に就任した(〜1924.12)。'15.8(T4) 校名を「東洋協会専門学校」より「東洋協会植民専門学校」と改称。'18.4 校名を「拓殖大学」と改称し、同窓会を「学友会」と改称される。'22.6 大学令に基づき「東洋協会大学」の設置が許可され、校名を改称。'26.12 校名を「東洋協会大学」より再び「拓殖大学」と改称し現在に至る('46.3 校名を「紅陵大学」と改名し、'52.10 「紅陵大学」を「拓殖大学」と再改名している)。
黎明期の拓殖大学の母体を築いた。享年62歳。