神奈川県高座郡有馬村中野(海老名市)出身。
14歳で薬種問屋に奉公しながら、下山順一郎博士の経営する東京薬学校に通い、1897(M30)16歳で卒業、薬剤師試験に合格。
同年東京医学専門学校(済生学舎)に入学。1900卒業後、内務省医術開業試験に若干19歳で合格し免許受領。
'02北里柴三郎が主宰する伝染病研究所入所。北里の推薦で神奈川県検疫官に任じられる。
検疫所には野口英世が先輩として勤務しており、二人の交流は野口の渡米後も続いた。
'04日露戦争開戦に伴う軍医少尉候補生募集があり受験、第一位及第となり病院船神戸丸乗組となる。
舞鶴海軍病院勤務、しばらくは駆遂艦や巡洋艦の乗組を歴任。'06海軍軍医会から競争論文一等賞として戸塚文海記念賞を受けた。
'11海軍で腸チフスが流行し大問題となっていたため、細菌学の経験のある壁島が抜擢され、伝染病研究所入りし、チフス予防ワクチンの創製やコレラ治療ワクチンの製造などに当る。
この頃発案した『壁島培地』は、「コレラの細菌学的診断のための選択培地」として、'45頃まで欧米でも広く使われた。
コレラ治療血清やワクチンの業績としては、菌は原型(稲葉)と異型(小川)のいずれかに一致するという論文を発表。
さらに一方の型の菌を同型の抗血清と共に培養することにより他の型に転換できるという事実を発見した。
この論文により'23京都大学より学位受領された。
ただし、コレラ菌の血清型が試験管内でも動物体内でも人体内でも転換されることが再確認され、定説となったのは1960年代に入ってからである。
早すぎた発見であったため壁島という名前はほとんど認知されていない。
'13伝染病研究所勤務終了。翌年から佐世保海軍病院にて細菌検査室主宰。
その後、龍田軍医長、笠置軍医長、看護術練習所教官などを経て、'17(T6)これまでの業績が認められ、フランス駐在武官となり、パスツール研究所に入所。
コレラ菌型別問題などの論文を発表する傍ら、軍医としての職責上、衛生関係の政府専門委員や講和会議へ出席した。
'20帰国後は海軍軍医学校教官となり防疫学教室を主宰。'23海軍軍医大佐。
軍医教官の傍ら、健筆家として世外迂人のペンネームで一般の医学雑誌に投稿もした。
'27(S2)第一艦隊兼連合艦隊軍医長に転じ、'28.12.10海軍軍医少将。同年出仕、侍命、翌年に予備役、'41後備役。従四位勲三等。
'29三共株式会社に主任技術者として入社、生物学的製剤部門を担当して種々のワクチンや免疫血清の製造に当たり'49(S24)まで務めた。
退社後は、壁島研究所を立ち上げ研究を続行しようとしていた矢先、狭心症で逝去。享年71歳。