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ごとう うまのすけ

後藤午之助

ごとう うまのすけ

1869(明治2)〜 1939.11.9(昭和14)

明治・大正・昭和期の実業家
(ゴトウ花店・花キューピット)

埋葬場所: 20区 1種 25側

 長門国(山口県)出身。長州藩士の後藤長四郎(同墓)の長男として生まれる。1882(M15)当時、役人が人手を増やす際に、故郷の若者を呼ぶことが頻繁にあったことから、毛利藩の役人に呼ばれ上京した。上京後は毛利藩の仕事を行なっていたが、東京の多種多様な面白さに魅了された結果、毛利藩の仕事を数年で退職し、「便利屋」として働き始める。便利屋として働く中で「お花の需要」を見つけ出した。
 1892(M25)「花午」という屋号で創業。お花の需要を見つけた背景には、現在の港区近隣に欧米人が多かったこと、欧米人が午之助に洋花の手配をよく依頼していたことがある。欧米人は来日すると長期滞在(半年から1年程度)をすることが当たり前であったため、故郷を懐かしむために洋花の手配を頼んでいた。なお現在の花屋のスタイルではなく、客は椅子に座り、コーヒーを飲みながら専門のフローリストに対応してもらうのが主流であり人気を博した。
 1919(T8)日本初の輸入洋花を販売する「後藤洋花店」(のちに「ゴトウ花店」)と改称。同時に大使館の外国人客のために午之助の頭文字をとって「U.GOTO FLORIST」という通称を付けた。宮内庁・各国大使館・外務省の御用達となる。
 午之助は3つの経営理念を掲げた。1つ目は「最高級のお花を提供する」こと。2つ目は「多店舗展開しない」こと。3つ目は「洋花店である」こと。以降130年間現在に至るまで、創業以来、東京港区六本木の場所を変えずに洋花の販売を続けている。
 その後、ゴトウ花店は、2代目後藤長太郎、初(共に同墓)が継ぐ。太平洋戦争時に創業以来大ピンチが訪れる。「戦時下では、喉を潤し、空腹を満たすことができない花に需要は無い」と考え、花屋を辞めて団子屋に鞍替えをしようと考えた。この考えを客に話したところ、「先の見えない今だからこそ、心を癒す花を売ることが大切。花を売れるのはゴトウ花店だけだ」と叱責された。この言葉に気持ちを動かされ困難な戦時下・終戦後にも、ゴトウ花店を継続することを決心した。以後、「花が人の気持ちを癒す」という想いを大切にしている。
 東京大空襲の被災を乗り越え、'47(S22)株式会社 ゴトウビルディングを設立。'49 日本初の全米花屋小売業協会「F.T.D」(FLORIST TRANSWORLD DELIVERY ASSOCIATION)(米国発祥、花の通信配達システム)会員となる。ゴトウ花店は「花の配達ノウハウ」を学び、それが後の『花キューピット』設立へと向かっていく。'53 「J.F.T.D」(花キューピット)を設立。'59 株式会社ゴトウ花店に組織変更した。
 3代目 後藤一郎(同墓)は、'95(H7)本店1階は160坪の「ゴトウフローリスト」オープンさせた。また店舗は、本店のほか、ヒルトン東京、帝国ホテル、新宿高島屋、セルリアンタワー東急といった、日本を代表するホテル内に開いた。現在は、2001より、4代目 後藤尚右(1962生)が社長を務めている。

<「創業者後藤午之助から受け継いだ3つの経営理念」トークセッション(株式会社ゴトウ花店 代表取締役社長 後藤尚右 氏 × 後藤俊夫 代表理事)>


*墓石は和型「南無阿弥陀佛」、台座に「後藤家」。左側にも小さな和型「南無阿弥陀佛」。右側に墓誌が建つ。上部に「後藤家 真宗本願寺派」と刻み、後藤午之助の父の後藤長四郎(T1.11.22歿・82才)から刻みが始まる。後藤午之助の戒名は直心院釋念道居士。妻は きん(S15.6.18没・65才)。後藤午之助の早死した三男の實(1才)、戦死した四男の三郎(S20.5.19 沖縄にて戦死・32才)の次に、2代目で長男の後藤長太郎(S37.3.27歿)、長太郎の妻の初(S56.11.30歿・78才)と続く。長太郎の戒名は華光院釋長西居士。3代目の長太郎の長男の後藤一郎(2006.4.28歿・71才)は戒名はない。


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