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ごとう せいこう

後藤静香

ごとう せいこう

1884.8.17(明治17)〜 1971.5.15(昭和46)

大正・昭和期の社会教育家

埋葬場所: 5区 1種 51側

 大分県出身。1903(M36)大分県立竹田中学校を主席で卒業し、同県の三重高等小学校の代用教員となる。翌年、上京し、官費生として東京高等師範学校数学専修科に入る。
 卒業後、女子教育者として大分高等女学校、長崎県立高等女学校、香川県女子師範学校に13年間、従事する。この教員時代に中学入試の参考書『算術倶楽部』を出版しベストセラーとなる。
 修養団(子どもを対象にした自然体験キャンプや恵まれない子どもたちとの交流活動のほか、家庭教育や社会人教育など多彩な事業を展開している財団法人)との出会いをきっかけに、1918(T7)女子教育者を退職し上京。社会運動団体である“希望社”を創立し、修養機関誌「希望」を出版して、その雑誌と各地への巡講を通じて、様々な呼びかけをした。この希望社運動は「社会教育」「勤労教育」の教育実践、「盲人福祉」「救ハンセン運動」「アイヌ民族の救済活動」「ロシアやドイツなどの他国の避難民や児童の救済活動」「援護活動」の社会福祉、「国民常食改善」の生活改善、「ローマ字運動」「点字運動」「エスペラント運動」「発音式かなづかいの実践」の文化活動と多義にわたった。また、どこかで大きな災害があると、ただちにその救援に乗り出し、救援の呼びかけと行動は迅速で、具体的な指示のもとに行われた。関東大震災の時にも具体的な指示を出し、一大救護活動で活躍した。
 機関誌も「のぞみ」「光の声」「泉の花」「大道」など生涯に創刊した月刊誌は21種にのぼり、その多くは一人で執筆し、最盛期には購読者百万人を超え、輪転機で印刷した。著書は70余冊を発刊。代表作は詩集や格言集『権威』であり、多くの青少年、全国の教育者や労働者に愛読された。
 理論だけではなく、具体的で、また熱意のこもった啓蒙的な内容の実践運動であり、格言や偉人伝、寓話などをわかりやすく解説し、男も女も修養して、よりよい人間、社会に有益な人間にならねばならないと説いた。
 希望社には熱心な信奉者が集まり、組織は大きくなるも、資金繰りで苦労し、青少年に勤労奉仕を行わせたとのことで社会的批判を受けた。また、狂信的な女性読者が後藤の女性関係をマスコミにリークしスキャンダルに巻き込まれたり、読者に詐欺罪で訴えられるなど苦労が絶えず、'33(S8)希望社は解散を余儀なくされた。
 しかし、その後も後藤は、「心の家」を主宰し、以後の生涯も一貫して社会教育に捧げることを貫いた。'68.11.20群馬県の榛名町に「後藤静香記念館」がオープンする。享年86歳。

<合田譲様より情報提供>
<「後藤静香」HP 森重玲子様より情報提供>


*墓石は洋型「後藤家」。裏面に「昭和四十三年七月 後藤静香 建之」と刻む。墓誌などはない。


【後藤静香の代表的な著作「権威」より】

これがために -権威-

本気 -権威-


【後藤静香の妹の後藤カヲル】
 後藤静香の妹の後藤カヲル(1896-1979)は大正期に発足した新婦人協会で活躍した人物である。カヲルは正式には、首藤房太郎・マツ(静香の母カズの妹)の二女として生まれたが、子沢山のため後藤家の養女となり、静香の妹となったというのが正しい。
 静香が希望社主幹と成女女学校の数学教師として多忙なところを、浅草蔵前の高等工業学校の宿舎の一室を借りて運営していた希望社の事務手伝いをした。同時に、当時の静香の家には、母とカヲル、静香の妻と子供、静香の先妻(早くに亡くなる)と先妻との二人の子供の7人家族で二階建ての長屋に住んでいた。カヲルは特に先妻の子供たちの母親代わりになって面倒をみたという。またこの頃(1919)、後(戦後)に衆議院議員当選を果たす田島ひで の上京と進学の面倒を静香が見るにあたり、カヲルも陰ながらサポートをした。カヲルは田島ひで と希望社の手伝いや新婦人協会への入会なども一緒にしている(田島ひでは上京して1年間、後藤静香の家に居候した)。
 その後、カヲルは音楽家の細川碧(1906-1950)と結婚する。碧は静香の援助を受けて東京音楽学校を卒業してドイツに留学し、帰国後にカヲルと結婚した。碧は東京音楽学校の教授を務め、作曲理論を教え、教え子には芥川也寸志や團伊玖磨がいる。カヲルと碧の間に二子を儲けた。細川碧とカヲルは日暮里の善性寺に眠る。

<「新婦人協会の人びと」>


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