和歌山県出身。1942(S17)早稲田専門部に入学しボクシングを始める。戦時中のため、外来スポーツの禁止で対外試合ができなかった。'44専門部を卒業し、陸軍特別操縦仕官に応募、熊谷陸軍飛行学校を経て、内地陸軍航空隊に配属され終戦を迎えた。
'45再度、早稲田大学に入学。'47主将となる。同年本格的にアマチュアボクシングが復活し、昭和22年・昭和23年とフェザー級の全日本選手権王者となった。
強豪の技巧派のアウトボクサーとして活躍し、ニックネームは“大学の虎”と言われた。この時のアマチュア時代最強ボクサー後藤をモデルにした松竹映画「大学の虎」(1950)が製作された(監督:岩間鶴夫、後藤役:鶴田浩二)。
'49(S24)大学卒業後、プロ入り。アマチュア時代の活躍もあり、いきなり8回戦からデビュー。'50.9.16浜松町のスポーツセンターにて、13戦目で早くも日本フェザー級のタイトル戦に挑戦。
ベビー・ゴステロを判定で破り、2代目 日本フェザー級チャンピオンとなった(試合後に「大学の虎」が映画化された)。翌月、秋山政司の持つライト級タイトルに挑戦したが判定で敗れた。また同年、前王者ゴステロにも敗れフェザー級王座も失う。
'51世界フライ級チャンピオン(第16代)の米国人ダド・マリノが初来日し、同.6.9 甲子園球場にてノンタイトル戦を行い、引き分けに持ち込む善戦でその実力を見せつけた。
なお、後藤が戦う前の、5.11、マリノは白井義男ともノンタイトル戦を行いマリノが判定勝利している。蛇足だが、翌年、白井はマリノとタイトル戦を行い、日本人初の世界王者となる。
同年、田中昇に勝利し日本フェザー級タイトルを再奪取。その後、堀口宏、赤沼明由の挑戦を退け二度の防衛に成功したが、'52赤沼との再戦に敗れタイトルを失い、公言通り即座に引退を表明した。ボクサーの戦歴は43戦28勝11敗1引分。
引退後はスポーツニッポンの新聞記者として活動した。また、モハメド・アリのタイトル戦などのテレビ解説者も行った。享年65歳。
*墓石は洋型「後藤家之墓」。裏面に「昭和三十四年二月一日 後藤ハヤ子 / 後藤柳次郎 建之」と刻む。右側に墓誌がある。戒名は盡道院拳技日秀居士。
*後藤柳次郎は着物の悉皆・仕立て・染み抜き・染め替え等を行っている「ちきりや京染店」を田園調布商店街にて創業。
'41(S16)より現在の場所にお店を建て現在に至る(現在は三代目)。'31(S6)柳次郎は看護師をしていた つる(同墓)と結婚し、長男の泰造(同墓)が誕生。
泰造は早稲田大学ボクシング部主将として活躍後、二代目となる。泰造の妻は佐代子(同墓)。
なお、泰造の息子の長男も早稲田大学ボクシング部主務、次男の後藤秀作も早稲田大学生時代にボクシング部の主将、後に監督を務めた。