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ふくおか しゅうじ

福岡秀而

ふくおか しゅうじ

1882.3(明治15)〜 1952.1.28(昭和27)

明治・大正・昭和期の実業家
(軍需品工業・製作販売の巨商)

埋葬場所: 7区 1種 2側

 千葉県山武郡公平村出身。久保田専蔵(長八)の3男。旧姓は久保田。1904(M37)明治大学法科卒業。1年間志願兵として近衛歩兵第一連隊に入営。'06兵役を終え、福岡正介の養子となる。
 養父の福岡正介は鐵工の販売業(1878創業)を営んでおり、秀而はその手伝いをした。鐵工技術に全然素人であったが、精緻優秀なる製品を供給するには自ら監督する工場をもち製作する必要があると感じ、'11養父隠居に伴い、分家独立して営業の一切を継承することをきっかけに、翌年、東京南千住に工場をつくり、自らも技術研鑽をはかる。
 '13.4(T2)福岡鐵工所を創立し社長となる。工場はさながら一家庭の如く、工場員と店員とを巧みに操縦士しつつ、一方、取引の外交にも勉め、傍ら、兵器諸機械の改善優良に志し、渾然一體となって日夜努力した。 陸海軍方面の信用が固く、陸軍尋常蹄鐵、同鐵臍、歩工兵器材、獣医器材など陸海軍各科兵器の金物諸機械、木具、革具類などを製作。軍需品工業・製作販売の巨商として発展した。また私財を惜しまず公共事業にも積極的に援助した。享年69歳。

<大日本人物名鑑>
<興亜経済人読本:志賀譲 S14>


*墓石は和型「福岡 / 若下 之墓」。墓誌があり、戒名は浄譽秀道信士。墓誌より、昭和42年11月20日、福岡ミツ(S42.11.17歿)が没したことにより、当墓は「福岡家」より「若下家」に移譲された旨が刻む。

*同墓には日本大学理工学部教授で土木工学博士の若下藤紀(H14.11.8歿 62才)も眠る。若下は複合構造、鋼とPC斜張橋の特性比較、水中・浮体橋梁などの研究を行った。戒名は公徳院奨譽梁紀居士。

※福岡秀而の略歴は戦前に刊行された人名事典二冊の合作にて作成しました。戦前は軍需品工業・製作販売の巨商として著名でしたが、終戦後、会社とご本人がどのような歩みをされたのかは不明。


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