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ふかわ かずのり

府川一則(3代目)

ふかわ かずのり

1870.1.8(明治30)〜 1934.10.10(昭和9)

明治・大正・昭和期の彫金家

埋葬場所: 14区 2種 33側 2番

 江戸深川六間堀(江東区新大橋)出身。初代府川一則の四男。通称は俊五郎。初号は一雄。 後に、一雄子、一雄子言外、一雄子巨、俊一雄生、一雄子洗心、一雄子重俊、洗心軒、巨外史、洗心子、言外、乗山、一雄子乗山、得山、徳山等の号などがあったとされる。
 父の47歳の子であり、7歳の時に死別したため、彫金術は兄の二代目府川一則に学んだ。1899(M22)内国勧業博覧会へ鉄製の鐔を出品。 金工家の関口一也に就いて絵画を学び、伊藤勝見に教えを受け、特に刀剣装具の製作に熱中した。 1898小さな手釦(てぼたん)に日光陽明門の神橋を彫刻するにあたり、日光へ実地踏査を行った。 また、銀花瓶に日露戦の野戦の図を彫刻するに際して、二代目一則と習志野の演習地に赴き、野砲を見学した。 更には、日出日没の富士山の光景を知るために、静岡県三保に滞在するなど、交通機関が優れていない時代にも関わらず、自らの目で確かめるために積極的に行動した。 その他、花鳥虫魚を写生するためにも、わざわざ植物園、動物園、博物館へ訪れ、実地で写すことにこだわり、その写生帳は数十冊に達する。
 1919(T8)二代目が没し、'23三代目府川一則を襲名した。自在庵一則、一念庵一則、一念貫一則、一念観一則などと称した。 大正、昭和と時代が変わるごとに、装剣具の需要が次第になくなっていったが、病に倒れるまで活動を行った。 なお、初め病にかかった際は、あらゆる方法を講じたが、右手が不自由になると、彫金術士として生ける屍も同然であるという思いより、一切の薬石も口にせず、食も退け、死を受け入れたという。享年65歳。戒名は靜心院諦譽俊道居士。


墓所

*五輪塔の線香立てに「府川」と刻む。右側に墓誌があり、墓誌には苗字が刻まれず、俊五郎と生没年月日を見ることができる。墓誌の裏面には「府川家先祖歴代の墓は東京市芝区芝公園地雲晴院墓地(港区芝公園にある浄土宗寺院の雲晴院)内に在り、本墓は彫金家 重次郎 初代一則の四男 俊五郎 三代一則を以て祖となす。昭和十一年七月」と刻む。

*父である初代 府川一則(1824-1876)は、またの名を蛟斎北岑(こうさい ほくしん)と称し、葛飾北斎の門人、江戸後期から明治時代初めにかけて活動した浮世絵師・彫金師。金工界の名工として知られた。墓所は芝増上寺雲晴院。二代目 府川一則(1855-1919)は、初代の長男であり、三代の兄。通称は慶三郎。父を師事し彫金を学び、則重と名乗る。父が没し二代一則を称す。墓所は雲晴院の府川家菩提寺に遺髪、遺骸は谷中天王寺。


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