安芸国広島(広島県)出身。通称は次郎。号は九樹。1863(文久3)広島藩の句読師となる。
1867(慶応3)広島藩の神機隊の隊長に就任。戊辰戦争では備中鎮圧に従い、軍監として武蔵に派遣され(隊長は河井麟三)、さらに奥羽に転戦して振武軍討伐等に活躍した。山中の戦に馴れ、尾根を利用しての散兵戦や、山道での追撃戦に大いに役立ったと言われている。
1874(M7)司法省に出任、司法少丞となり、元老院につとめ、1880東京上等裁判所検事となった。1882立憲改進党の結成にかかわり、1892(M25)広島県から衆議院議員に立候補して当選(当選2回)。
1893(M26)設立された播但鉄道(兵庫県の播磨地方と但馬地方を結ぶ鉄道として建設されたが、1903山陽鉄道に路線及び附属物件が譲渡され、山陽鉄道の国有化と同時に官設鉄道の一部となった)の初代社長に就任(翌年9月退任)。従6位。享年73歳。
<講談社日本人名大辞典> <20世紀日本人名事典など>
*墓石は「藤田家之墓」。左に「憩」と刻む小墓石が建ち、右側に墓誌がある。墓誌には「従六位 藤田髙之」、没年月日、行年は七十五才と刻む。妻はノブ。
【神機隊】
芸州広島藩士の木原秀三郎の提唱により、慶應三年八月に結成。木原は賀茂郡志和冠村の豪農で、若くして長崎奉行所のオランダ語通訳になり、洋式兵学などを学び、のち広島藩士に抜擢された。
隊士は民間有志で総勢300人。戊辰戦争では上野彰義隊の掃討戦から武蔵飯能、さらに仙台方面に転戦、勇名をとどろかした。解散は明治5年2月15日。
*神機隊名簿に藤田高之は、藤田二郎と記載されているのが多い。人名事典のほとんどは通称として藤田次郎と記載している。
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