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ほり じぶ

堀 治部

ほり じぶ

1906.3.28(明治39)〜 1985.12.21(昭和60)

昭和期の医師、随筆家、
全財産を佐渡の金井町に遺贈

埋葬場所: 24区 1種 8側 1番

 新潟県佐渡郡新穂村出身。眼科医の本間芳太郎の二男として生まれる。1923.3(T12)県立佐渡中学校卒業。'31.3(S6)北海道帝国大学医学部卒業し医師免許を取得。
 同.9 新潟県佐渡郡上中興村の堀家の一人娘の愛子と結婚。治部は大学在学中(1928)に既に愛子の母の堀シン(同墓)と養子縁組を済ませていた。結婚前に養子縁組をしたのは、治部の祖母こうは堀家から新穂の本間萬吉に嫁した人で、その孫の治部は堀家にとって血縁関係であったからである。また治部が佐渡中学校へ通学する際、自宅の新穂からでは二里(8キロ)余りもあって遠いため、一里足らずの距離にあった中興の堀家から通学をさせてもらっていた。よって、治部と愛子は幼少の頃より兄妹のような関係で仲が良かった。このようないきさつがあり、堀家では一人娘の愛子を治部に嫁がせ、堀家を委ねることを決定したという背景がある。
 '36 堀家第9代家督を相続。同年、医学博士の学位を授与された。'37 支那事変に応召され、上海戦線に参加したが、翌年除隊。除隊後、東京淀橋区戸塚二丁目(東京都新宿区戸塚町)に耳鼻咽喉科医院を開業。医師の傍ら随筆を書き、'67 随筆『四つの旅』、'79 随筆『なにとなく』を出版。
 '80 医院兼住宅の建物が古くなったことから同じ場所に改築。建て替え期間は、静岡県伊豆高原に仮住まいを建てて、一時転居。転居の数か月後、妻の愛子は発熱と下血を繰り返すようになり、検査の結果、胆のうの病気と判明し手術を受けた。手術後、一時は小康を取り戻すが、八月になると再び悪化したため、東京の病院に転居することにした。
 '81.9 建設中だった鉄筋二階建ての新居が完成。一階をコンビニに賃貸し、二階を医院兼住宅として再び開業した。一進一退の病状を繰り返していた愛子は、その後の二度に渡る手術の効もなく、'82.8.9(S57)治部の手厚い看護もむなしく、不帰の客となった。治部は医師でありながら、死の直前まで苦しみ抜いた愛子を救えなかった痛恨の思いと、医療現場の課題を、随筆『影法師』としてまとめ、'83 愛子への鎮魂の書として刊行した。
 治部と愛子は子どもに恵まれず、養子も不縁であったため、かねてから旧家である堀家の跡目が自分たちの代で絶えるのは先祖に申し訳ない、せめて二人の財産を社会のために役立てたいと話し合っていた。そこで、'79(S54)にお互いを執行人とする公正証書を作成し、二人の没後は全財産を公共のために提供する考えを固めていた。その頃、中興の留守宅の管理を任されていた藤原重次郎が、たまたま上京した折に財産提供の話を聞いて、「せっかく寄付するのなら、実家のある金井町の発展に向けてほしい」と要望した。そのことを忘れずにいた治部は、愛子の葬儀を終え、気持ちの整理もついた、'82.10.2「愛子名義の財産の内、東京都の宅地と伊豆の山林を本人の遺贈として金井町で役立てていただきたいと思うので、意向を聞きたい」旨の手紙を藤原に送った。もちろん金井町は、その厚意をありがたく受け入れることとなり、治部はいくつかの希望使途を明記した上で、自分の死後全財産を金井町に遺贈するため万全の措置を講じた。愛子が亡くなった三年後、治部も逝去。享年79歳。
 寄贈された遺産より金井町はその功績に報いるため、'83.1.1 堀夫妻に「名誉町民」の称号を贈った。堀夫妻が名誉町民第1号となる。なお第2号は東京大学名誉教授の生物学者の浅島誠、第3号は日本画家の桑原義泰である。功績を賛えるとともに、夫婦の篤志を後世に伝えるため、中興の堀家跡に「金井町文化会館」を建設し、庭園に堀夫妻のブロンズ像を設置。本格的な能楽堂も併置し、演能をはじめ文化的行事に活用。'90(H2)東京都新宿区西早稲田に賃貸オフィスビルの鉄筋コンクリート地上八階・地下一階の「堀記念ビル」を建設。ビルにはコンビニ、商社、専門学校が入居、その貸賃収入はいったん積み立て、有効に使用すべき旨の町条例が制定された。そして、この多磨霊園に金井町が管理者として堀夫妻の墓碑を建てた。なお、金井町では、堀夫妻の遺徳を賛えるため、'91.3(H3)「金井町名誉町民 堀御夫妻」を刊行し、町内全戸に配布した。

<金井を創った百人>
<佐渡人名録「堀 治部・愛子 全財産を町に遺贈した医師夫妻」>


墓所 標石

*墓所入口右側に「金井町名誉町民 堀夫妻の碑」と刻む標石が建つ。左面「新潟県佐渡郡金井町」と刻む。洋型「堀家之墓」、裏面が墓誌となっている。「母 堀 シン」(S19.2.12)から刻みが始まり、次いで「堀愛子」(M44.11.21-S57.8.9)、「堀治部」の三名が刻む。また「昭和五十八年五月吉日建之 施主 堀治部」も刻む。

*堀家は新潟県の佐渡島の中興村(なかおきむら)の百姓弥治右衛門の二男の弥三右衛門が中興字藤津に屋敷を求めて分家したのが始まり。
 3代目の弥左衛門の才覚により、江戸末期には二〇町歩余の田地持ちになったという。その後の堀家は金城と号して連歌をよくした4代目の弥左衛門、儒学者の左山こと5代目の邦典、菅岳こと6代目の田功(でんこう)と、文人や学者を輩出する。
 愛子の祖父にあたる8代目当主の堀修太郎は、1895(M28)立憲改進党から出馬して県議会議員に当選し、郡道金丸線の開設、耕地整理事業の推進、県立農事試験場分場の誘致などに尽力するとともに、消防団結成に際しては中興分団に消防器具一式を寄付したりした。1900.10.24(M33)付の「佐渡新聞」には、「金沢村大字中興の堀修太郎は当相川町の明治学校へ金二円を寄附したりと云う」という記事が紹介された。明治学校は民権運動家の森知幾が被差別部民の子弟のために開いた私立学校である。

*江戸幕府は佐渡島には藩を置かずに、佐渡を天領として、佐渡奉行所を相川に置き、幕府自らの直接統治を行った。明治維新後は、佐渡県、後に相川県が置かれたが、1876(M9)新潟県に編入された。堀家は佐渡島の中興村にて代々定住していた。その中興村は、1889.4.1(M22)中興村、千種村、新保村、貝塚村の4村が合併して「雑太郡金沢村」になった。1896.4.1(M29)雑太郡と加茂郡が羽茂郡と合併して「佐渡郡」となる。1954.11.3(S29)金沢村と吉井村の一部が合併し、金沢の「金」と吉井の「井」をとり「金井村」となる。1960.11.3(S35)金井村が町制施行して「金井町」になる。2004.3.1(H16)平成大合併で治部の誕生地の新穂村も含めて合併し、佐渡市になる。市役所は金井町役場に置かれ、新しい建物に移転した。


【その後の堀記念ビル】
 堀記念ビルは、1990年に新宿区西早稲田に施工されたオフィスビル。フロアの基準階坪数は139坪程。高田馬場駅、西早稲田駅から徒歩5分、面影橋駅からは徒歩6分の好立地に建っている。
 2004.3.1(H16)金井町など周辺の町が合併し佐渡市となって以降も、堀ビル信託配当収入が継続されることになり、合併後も堀夫妻の墓参を執行部と議会で毎年実施していた。しかし、建物が建った '90から三井信託銀行(三井住友信託銀行)と25年間の契約で信託事業を行ってきたが、2015.10.12(H27)信託期限が切れるに当り、三井住友信託銀行から新たな信託事業を起こすつもりはないと事前通告を受け、佐渡市に戻ってくることになる。佐渡市は売却する方法と、どこかの不動産会社に全面的に委託して任せるという両方の方法について検討し、結果、建物については売却するほうが非常に有利だという結論に至ったことを発表。
 それを受けて、2014.9.19 平成26年第6回佐渡市議会定例会にて議案第96号 財産の処分について(堀記念ビル)が議会で話し合われ、笠井正信や加賀博昭らの議員が、堀夫妻の思いを踏みにじる行為であると反論した。また堀記念ビルは堀夫妻から建物をもらったのではなく、旧金井町が建てたのであり、三井信託銀行に信託契約をして10年間で年6000万の配当をもらっていた。合計すると10億もらっていた価値ある財源である。これを売却するとはどういうことだと異議を唱えた。それに対し、佐渡市は土地については売却することはしない。土地はあくまでも30年契約ということで考えている。新たな運営方法について検討した結果、新たな信託事業を起こすということは考えられないため、不動産会社に全面的に委託して管理していただきながら、佐渡市はその収益の一部をもらうというやり方は変わらず、また上屋だけ売却すれば約8億で売れると返した。最終的に佐渡市長の甲斐元也が、議会への相談なしに話を進めようとしていたことに対して謝罪し、委員会にて再検討していく運びとなった。
 結果、令和の現在、堀記念ビルは、「TCKビル」と名称を変えている。なお、2017.6.16(H29)の平成29年 第6回 定例会にて、「堀ビル売却における積立及び土地貸付収入の行方について」をテーマに、土地貸付収入は年額約2千万円、30年間の契約の財源をどう活用しているのかが佐渡市議会にて議論された。

<佐渡市議会の議事録参照>



第502回 全財産をふるさとの佐渡島の金井町に遺贈
堀治部 愛子 夫妻 お墓ツアー


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