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ほんだ ちかよし

本田親美

ほんだ ちかよし

1847(弘化4.12)〜 1909.2.23(明治42)

明治期の旭川開拓使、初代旭川町長

埋葬場所: 9区 2種 6側

 東諸県郡高岡町(宮崎県宮崎市高岡町)出身。戊辰戦争に参加し、1871(M4)近衛兵となった。1885(M18)陸軍御用掛として北海道屯田兵本部付となり、屯田兵招募官として永山屯田兵村の経営などにあたる。
 1891.7.25(M24)それまで月形村にあった永山・神居・旭川の三村の戸長役場を永山に移し、本田が戸長に就任した。まず米作りに挑戦したが失敗。1892本田と大隊長の和田正苗が、道庁から種子の斡旋を受け、山口千代吉に明治米の試作を行う。20余束ほど収穫し、この成果を受け稲作を奨励するようになる。これが上川水田発祥の地となる。
 1893永山にあった戸長役場は旭川に移されることになり、春に建築を着工し同年8月に完成した(1921まで使用され、その後解体移築され、永山3条19丁目に復元されている)。初代旭川戸長に就任し、村政に尽力した。当初は、神居・神楽・鷹栖・東川の役場を兼ねていたが、1900町制が施行され旭川村を旭川町と改称し、旭川町役場となった。これに伴い、初代旭川町長に就任。旭川地方の開拓に尽くし、石狩川流域発展の基礎をつくりあげるなど尽力した。享年63歳。
 没後、1925(T14)本田親美の功績を讃えるため、常磐公園内の千鳥ヶ池のそばに「本田親美顕彰碑」が建立された。また、1927(S2)山崎有信の著『本田親美翁伝』が刊行された。

<旭川市の概要 あゆみ>
<財団法人旭川市公園緑地協会「本田親美顕彰碑」説明文など>


墓所

*墓石は和型「本田家奥津城」。裏面は「昭和十四年十二月 本田一夫 建之」。左側に墓誌がある。

※本墓もしくは最初の埋葬場所は別地であると推測する。子孫が昭和十四年に多磨霊園に改葬したか分骨したものと思われる。


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