徳島市出身。本名新太郎。旧号晃甫(こうほ)。
1907(M40)香川県立高松工芸学校、'12東京美術学校日本画科をそれぞれ卒業、在学中には白馬会洋画研究所に通い、萬鉄五郎らとアブサント会を結成する。
また'16(T5)版画家長谷川潔、永瀬義郎と日本版画倶楽部を結成、グループ展を開催して個性の追求に青春を賭けるが、やがて版画を棄て、これまで用いていた新太郎から晃甫の雅号を用いて日本画家としての道を歩み始める。
'19第1回帝展に二点入選のうち「青衣の女」で特選となり、翌年第2回帝展に「夕暮れの春」で再び特選、浪漫的な傾向の作品でその実力を示して注目される。
'26第1回聖徳太子奉讃美術展に「雪梅図」を出品、同年帝展委員となり、帝展に出品を重ねて審査員をつとめ、'30(S5)明治神宮聖徳記念絵画館の壁画「外国使臣謁見の図(各国公使招見)」を制作する。
同年日独美術展委員としてドイツを訪れ、ベルリン民俗学博物館、ロンドンの大英博物館、パリのギメ博物館で中央アジアの壁画模写を行ない、ヨーロッパ各地を廻って'32帰国、翌年には朝鮮に赴く。
'36秋の文展招待展に「あさがお」を招待出品、'39、'41と新文展に無鑑査出品する。
戦後は滉人と雅号を改め'46秋の第2回日展に「春景」で入選、日展に'49、'50と依嘱出品、翌年東京都世田谷区で歿。'55画集が刊行された。
*広大な墓所に計7基の墓石が建つ。正面に4基。右端は五輪塔。他は和型で前面は夫婦の戒名が刻み、右面に没年月日、俗名が刻む同じ形の墓石が3基。右から祖父の広島兵次郎と前妻のヤス、後妻のミツ。真ん中は父の広島秀太郎と母のふき。左が広島滉人と妻のキクの墓石である。広島滉人の墓石の前面は「滉人院大智證道居士 / 白蓮院和光妙照大姉」、右面に「昭和廿六年十二月十六日 俗名 新太郎」と妻の刻みがある。台座などに「広島」という刻みはない。墓所右手前に和型墓石が二基建つ。左手前に大き目で新しい墓石が建ち、前面に「夢」と刻む。裏面は墓誌になっており、渡辺家の方々が刻む。
*広島滉人の父親である広島秀太郎(1860-1926.1.17)は阿波国史など郷土史関連の著作を残した教育者である。
*旧号である広島晃甫(ひろしま こうほ)や本名である広島新太郎の名で人名事典に掲載されているケースも多い。