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ひらが よしみ

平賀義美

ひらが よしみ

1857(安政4.8.6)〜 1943.3.2(昭和18)

明治・大正・昭和期の化学者、工学者、実業家

埋葬場所: 20区 1種 16側 15番

 福岡県出身。初名は石松决(いしまつ さだむ)。平賀義質(同墓)の斡旋により、1867(慶応3)11歳にして長崎に出て英学を修め、1870(M3)14歳で福岡藩の貢進生となって大学南校に入学した。 ここで外国教師の化学実験に感動して、化学を志すようになった。1878(M11)東京帝国大学理学部卒業。当時、旧福岡藩主の黒田長溥(ながひろ)は廃藩置県後も、旧福岡藩士出身で東京帝国大学卒業者を対象に、個人的な資金援助を行って欧米留学生として派遣していた。 義美が大学で研究していた「科学染料による染色法」の経験が見込まれ、黒田の給費でイギリスに留学させてもらい、オーエンス大学に入学、染色術を専攻した。また実際的工業を修めた。 1881帰国し、東京職工学校(東京工業大学)東京大学教授、農商務省技師となる。
 1882(M15)平賀義質と長男の急死に伴い、義質の長女の婿養子となり家督を継いだ。これを期に名前を平賀義美と改名。この頃の日本は好景気に湧いていたこともあり、留学で得た染色術を繊維業界からの講習依頼が殺到したため、全国行脚を行った。 大阪商品陳列所所長、大阪織物会社を設立し社長になるなど歴任。教育面でも関西商工学校創立に参加、明治専門学校創立以来の協議員などを歴任するなど尽力した。また『日本工業教育論』を著すなど、工業学の普及に努め、日本で初めて工学博士となった。 人造真珠工業は、光珠商であり貿易商であった大井徳次郎がフランス製品を入手し、その研究を義美に依頼したことに始まったといわれる。このように明治・大正期の商工業界に多大の貢献をなした。
 1919(T8)猪名川沿いに建設された平賀義美邸宅は英国風西洋館であり、この邸宅は1990(H2)兵庫県川西郷土館に移築され現在一般公開されている。


ひらが よしただ

*墓所正面に平賀家累代墓。これは平賀義美が1940.7(S15)青山墓地より多磨霊園に改葬した際に建立した墓である。 裏面に平賀義美の名が建立者として刻む。左側に故正六位平賀義質之墓が建つ。裏面には略歴が刻む。



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