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はっとり ただし

服部 正

はっとり ただし

1908.3.17(明治41)〜 2008.8.2(平成20)

昭和期の作曲家、指揮者

埋葬場所: 22区 1種 27側 13番

 東京市神田区(東京都千代田区)出身。銀行家の服部正平(同墓)の長男。1931(S6)慶應義塾大学法科卒業。学生時代はマンドリンクラブに所属。卒業後に三井生命保険に入社したが直ぐに退職し、翌年より3年間、帝国音楽学校講師となった。
 '30「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」主催のマンドリンオーケストラ作曲コンクールで『叙情的風景』が入選。その後、菅原明朗に師事した。'35第4回音楽コンクール作曲部門第2位。'36時事新報主催の音楽コンクールで三部作『旗』の一曲『西風に飜える旗』が2等入賞。'37青年日本交響楽団を創立し、'47まで同楽団主宰者として作曲・指揮をする。傍ら、'40よりビクター専属作曲家として、黒澤明監督「素晴らしき日曜日」や「次郎物語」など、東宝や新東宝の映画音楽に携わる。
 '53〜'74 国立音楽大学教授を務めた。退官後は名誉教授。この間、'55 歌劇・オペラ『真間の手古奈』(真間=千葉県市川市真間、手古奈(てこな)は奈良時代以前に住んでいたとされる女性の名前)が人気を博し200回上演された。その他、NHK放送音楽の作編曲および指揮に活躍。日本女子管弦楽団代表取締役も務めた。
 『ラジオ体操第一』の作曲者としても著名。また、'54黒柳徹子が日本のラジオドラマ史上初めてトン坊 役として大人の女性が子供の声を演じ歌った『ヤン坊ニン坊トン坊』(NHKラジオ第一)を作曲。
 管弦楽、オペラ、オペレッタ、バレエ、マンドリンオーケストラ、吹奏楽、放送音楽、歌曲、映画音楽、CMソング、学校向け教材音楽、校歌など幅広いジャンルの作曲を手掛けた。代表作に、交響曲『海』『ガリヴァー旅行記』、歌曲『野の羊』など多数。著書に『マンドリン・オーケストラのすべて』『広場で楽隊を鳴らそう』などがある。'78紫綬褒章、'84勲4等旭日小綬章。老衰のため自宅にて逝去。享年100歳。

<音楽家人名事典>
<講談社日本人名大辞典など>
<野口聡様より情報提供>


墓所

*自然石に「服部家墓」。裏面は「昭和十三年六月 四代目 正平」。右側に墓誌がある。墓誌は没年月日(一部 生年月日と生誕地)と俗名、享年が刻む。戦死した弟の正之から刻みが始まる。妻は冨士子(旧姓名は小西不二子、1926生、2017.2.31歿)。墓誌の裏は服部家のルーツや4代目正平がこの地に墓を建てた旨が刻む。

*服部家の初代は現在の三重県津市で百姓向けの茶碗等を売る雑貨商を営んでいた服部傳八。傳八の息子の廉平が二代目となり、商売が上手く、米相場で巨万の富を築いた。この時に11代津藩主の藤堂高猷は凶作や地震などにより借金を抱えていたため、援助をしたことで苗字帯刀を許され「服部」姓を頂戴したという。「服部」は伊賀地区のシンボル的な名前のひとつ。二代目は子宝に恵まれなかったため、妻の姪を養子として迎え、その姪の婿が三代目となり、二代目と同じ廉平と名乗った。しかし、三代目は実業に向いておらず財産をほぼ失う。四代目の正平は小学校卒業後より銀行の小僧となり、以降は父とは真逆に堅実に生きる銀行家の道を歩んだ。服部正は五代目である。

*前妻は工芸家の服部祐美。離婚後、1954バレリーナの18歳年下の冨士子と再婚した。六代目は冨士子との長男。



第469回 『ラジオ体操第一』の作曲者 服部正 お墓ツアー


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