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はった きちへい

八田吉平

はった きちへい

1878.12(明治11)〜 1960.3.20(昭和35)

明治・大正・昭和期の官吏、技師、教育者

埋葬場所: 13区 1種 56側

 福島県出身。八田吉多の二男。兄は八田宗吉。1910(M43)分家。
 第一高等学校を経て、1904(M37)東京帝国大学農科大学農学科を卒業。茨城県立農学校教諭をしていたが、韓国統監府嘱託となって、同臨時間島派出所技師となる。
 その後、朝鮮総督府農林学校教諭、朝鮮総督府技師、朝鮮総督府勧業模範場技師、朝鮮総督府水原高等農林学校教授などを歴任した。享年81歳。

<人事興信録>


*墓石正面「八田家之墓」。左側に墓誌が建ち八田吉平から刻む。吉平の妻のトキ(M18.7-S43.1.26)は渡邊行藏の二女。二人の間には6男1女を儲ける。長男は龍太郞(M45.5-H9.7.10)。龍太郎の妻はカヅ(H28.7.11歿)。同墓には八田吉平の四男の八田健(T9.3-S17.6.25・行年22才)も眠り、朝鮮神宮運動大会に京中庭球選手主将として活躍するも、肋膜炎に罹り療養すしていたが逝去。父の八田吉平が『八田健遺稿』(1943)を刊行している。


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