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はたの しげたろう

波多野重太郎

はたの しげたろう

1853(嘉永6.2)〜 1940.11.13(昭和15)

明治・大正期の教育者

埋葬場所: 19区 1種 20側

 岡山県出身。波多野行蔵の二男。三菱財閥が創設した三菱商業学校卒業。1881(M14)閉校に伴い明治義塾と改めて出発する際の発起人の一人となる。なお、明治義塾は後に英吉利法律学校を経て中央大学となる。
 1882.3.20横浜商法学校(横浜市立横浜商業高等学校)創立に伴い英語で算術を教える教師として赴任。教え子に後に労働組合運動の先駆者となる高野房太郎らがいた。1896東京工業学校助教授 兼 東京工業学校書記となる。
 1898(M31)第7代 滋賀県商業学校長(八幡商業高校)に任ぜられ、1899より2年4ヶ月は静岡市の商業学校設立に伴い、初代 静岡商業学校校長に請われて赴任。校長職を務めながら教諭も兼ね、商業算術を教えた。「国家繁栄には海外貿易が重要」との考えを持ち、生徒に「士魂商才」の四文字を掲げて、商人の使命を説いた。人柄は厳格で「卑屈なる根性を憎み、通学途中にあっても学生は学生らしく堂々と闊歩(かっぽ)せよ」と教えたという。
 大正期は東京高等工業学校教授を経て、分派した東京高等工藝学校の教授として活動。1921(T10)依願免本官。従4位 勲4等。享年87歳。

<日本紳士録>
<朝日新聞「実は100年超す縁 監督ら、交流継続を誓う」2006.8.10>


右面

*墓石は和型「波多野家之墓」。右面は「従四位 勲四等 波多野重太郎 / 妻 とめ子 之墓」(元々はこちらが正面であったと推測する)。裏面が墓誌となっており、戒名は清隆院法光日重居士。

*波多野重太郎が校長を務めた滋賀の八幡商業高校と静岡の静岡商業高校の両校とも野球の名門校である。この縁により、両校の監督は交流戦を行うなど切磋琢磨している。

*巌松堂(巌松堂出版株式会社)の創業者とは別人。


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