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はた かんぞう

畑 歓三

はた かんぞう

1880.8.16(明治13)〜 1957.1.31(昭和32)

明治・大正・昭和期の教育者

埋葬場所: 11区 1種 19側

 香川県丸亀市出身。愛媛県松山中学校(愛媛県立松山東高等学校)を卒業後、1897(M30)関西学院普通学部普通科第3学年へ編入し、自助会とグリークラブ、野球部に参加。1899卒業。1900同志社大学へ進学するも退学。'02文部省中等学校教員英語科試験合格。同年早稲田大学に入学し、'05卒業(第1回生)した。
 '06〜'12私立麻布中学英語科教員を務め、'12.12(T1)渡米し、カリフォルニア州バークレー市に後輩で後に第5代関西学院院長になる神崎驥一とともに住み、4年2カ月滞在。この間、カリフォルニア大学大学院に入学し、美学・ギリシャ哲学を専攻する。'15同大学院から修士号を取得。またアラメダ市日本人小学校長を務めた。
 '17帰国し、関西学院高等学部教授(英作文担当、当初は美学も講じた)に就任。'20不振の続く庭球部(テニス)顧問となり、『Noble Stubbornness(ノーブル・スタボネス:高貴な粘り)』を提唱したことで知られる。これは現在、関西学院大学体育会のモットーとして使われている。
 '21文学部教授に移籍。'23高等商業部教授。'28(S3)関西学院を辞職して、3度目のアメリカ渡航を行い、南米とヨーロッパを周り帰国。この時にブラジル政府からコーヒー販売権を獲得している。'30.4帰学し、関西学院高等商業学部、専門部教員に就任。'34文部大臣より関西学院大学教員としての認可を受け、商経学部講師となる。'44法文学部講師。'45.3〜'47,6旧制中学部長を最後に退職。部長時代にアメリカの大学歌の旋律を使って応援歌「大空に高く」を作った。
 退職後は、松山語学専門学校に赴任するが、10ヶ月で退職する。'48.4再び関西学院大学の講師となり、'53.3.31関西学院を退職。同年神戸市内の海外書籍貿易会社に入社し顧問となる。享年76歳。

<関西学院の人びと>
<開校四十年記念 関西学院史など>


墓所

*自然石に「畑家之墓」。右側に墓誌がある。俗名と没年月日が刻まれる。長男は音楽学者で第14代関西学院院長となった畑道也(1939.7.2-2008.3.25)がいる。ただし、墓誌に刻みがない。

*畑歓三の名の正式は歡三。出生届に觀三と誤記され、以後、觀・観・歡・歓の字を随時使った。墓石には歓三と記されている。


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