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はしもと うめたろう

橋本梅太郎

はしもと うめたろう

1871(明治4.12.24)〜 1938.10.24(昭和13)

日本の実業家(浅野財閥・浅野物産)

埋葬場所: 15区 1種 1側 1番

 福岡県福岡市出身。下駄屋や役場で働いていた橋本往来、タケの長男。母を6歳の時に亡くす。1883(M16)今宿小学校を優等で卒業し、福岡市内の山路薬店に就職した。しかし、父が病床についたので退職し実家に戻り看病するも亡くなる。幼い妹と共に叔父の松本半蔵に引き取られた。養鶏業を手伝いながら、県庁庶務課の給仕として働いた。1887 田川郡地租改正事務所の書記として働き、1888 酒屋の養子となるが、学問の志が高く、3か月で離れ長崎に赴く。その地で教会に身を寄せながら鎮西学院で学ぶ。1890 卒業し、友人の橋本健三が旅費を負担してくれ二人で渡米し留学した。
 1892 サンノゼ・ハイスクールを経て、1895 ジョージタウン大学に進学。在学中アラスカでゴールドラッシュが起きると一攫千金を夢見て現地に行き、採掘をするも何も得られず所持金が尽きる。6日間歩いて港にたどり着き、船員として働きながらシアトルまでたどり着き、3か月かけてシカゴまで帰ってきた。この冒険談はニューヨク・サン新聞に掲載され、冒険家として名を馳せた。編集長の厚意でヨーロッパ旅行に同行している。1901 ジョージタウン大学法学部を卒業し、弁護士の免状を得た。
 '03 帰国し、ニューヨーク生命保険会社に入社し、九州支社長に就いたが閉店となり、'04 会社自体が日本から撤退したため退職した。同年渡米し、セントルイス万国博覧会の日本出品販売部主任を務める。その時に知り合ったアメリカ人に依頼され、グランド・トランク・レールウェイ鉄道工事の監督になり、日本人労働者五百人を率いてロッキー山中の難工事を成し遂げた。'08 帰国し、アメリカ人相手の契約書作成の請負人の仕事をした。
 '10 渋沢栄一の援助で城東電気軌道株式会社を設立し常務となり、のちに取締役。城東電気軌道は現在の東京・江東区と江戸川区を走っていた路面電車である。'13(T2)経営難の日東銀行を買収し第五銀行に改称して専務取締役に就任。曹洞宗貫主石川素童師が鶴見に総持寺を建立するにあたり、巨額の融資をし、見返りに全国の檀家に第五銀行への預金を奨励してもらい預金を集めた。加えて城東電気軌道の沿線の町長、村長、有力者を代理店にして預金を集めるなど、交渉術に長けており会社を発展させた。しかし、'16 第五銀行の経営権が浅野財閥に移り浅野昼夜銀行と改称し頭取が変わると辞職した。なお浅野財閥総帥の浅野総一郎とは知己の間柄であり、銀行を辞職した橋本に、浅野造船所のためにアメリカから鉄材を大量に購入する契約を任され渡米する。以降5年間、アメリカに滞在し浅野財閥のために活動。
 '17.8 アメリカが鉄の輸出を禁止すると、日本は米国政府と船鉄交換交渉を行ったが、橋本は米国政府当局者と折衝。'18 日米船鉄交換契約が成立すると、ピッツバーク工場に行き鉄材の製造積出を督促し、鉄道会社と輸送交渉を行った。鉄材が暴落した際には生産会社と交渉して解約に成功し損失を抑えることにも成功。そのほか、第一次世界大戦終了に伴う米国の船舶不要時期や、スペイン風邪による船員の士気低下などのピンチな状況を回避させている。またイタリアのジェノバで開催された国際労働会議に出席し、英国船主代表団と密接に意見交換をし、船員の一日8時間一週間48時間労働規則制定を阻止した。
 '20 帰国し、浅野物産取締役 兼 東洋汽船専務に就任。同年、経営に苦しんでいた浅野物産の取締役にも就任。従来の思惑買いを辞めさせ、堅実なコミッションシステムに経営方針を切り替えさせ、第一次世界大戦後の不況で苦境にあった浅野物産を再建して資本金を10倍に増やした。また浅野総一郎と松本織居の三人の匿名組合で浅草雷門にカフェー・アメリカ(カフェー・オリエントに改称)を開業し、ボーイがいない女給だけのカフェにして大人気になった。
 '21 経営難の小倉鉄道の融資の交渉窓口を浅野財閥側の担当として成立させ、小倉鉄道の取締役にも就任。同年、経営破綻寸前の浅野昼夜銀行を安田財閥に引き受けてもらおうと、安田善次郎を訪ね承諾を得たが、翌日、安田善次郎が暗殺された。
 '22 貿易商ホーンの横浜の邸宅を買い取って、テムプル・コート・ホテルにして、宿泊よりも社交場や結婚式場としての経営に力を入れたが、翌年、'23.9.1 関東大震災で廃墟になった。その他、関わっている会社も被害を受けたが、浅野物産は翌日から業務を再開させ復興材料の輸入に全力を注ぎ、被害を相殺した。同年、東洋食料品輸入商会を設立し、米国産干しブドウを日本で最初に輸入。その後も、ハム・チーズ・果物も輸入し経営も順調であったが、'25 関税が10割増しになったので閉鎖した。この間、'24 東洋汽船の船員がストライキを起こした時、殺される覚悟でストライキ本部に乗り込み、深夜まで話し合いを行い鎮圧させている。
 '26 高級ビヤホールのカフェー・ニューヨークを開店。'29(S4)ユニオン・バーを開店。日本ヴィクトリックを創立。'31(S6)浅野物産副社長に就任し多くの会社に投資して浅野物産を多角化した。また20年以上勤続して満55歳の定年に達してから病気で退職した社員に、退職時の給料を死ぬまで支給する恩給制度を設け、毎期総利益金の一割を恩給の基金に繰り入れることにさせた。
 第一次大戦後の不況、関東大震災、金融恐慌、昭和恐慌、満州事変による為替の低下、上海事変など様々な苦難の中でも立て直し利益をあげる経営手腕は新聞雑誌で賞賛された。また交渉術に長けていただけでなく、多くの社員や従業員の立場に立ち、直接話し合いをして問題を解決する姿勢は、多くの人たちに愛された。数々の会社の重役を担っていたが、ほぼ現職のまま逝去。享年66歳。没二日後、青山斎場で社葬が行われ、1,702人が参列した。

<「橋本梅太郎」橋本梅太郎君傳記編纂會(1939)>
<人事興信録>


墓所

*墓所に三基並び、真ん中の和型戒名が刻まれているのが橋本梅太郎の墓石。前面「梅尚院清馨日勵大居士 / 本清院妙聰日貞大姉」、裏面「梅 俗名 橋本梅太郎 / 本 俗名 室 トメ」。墓所正面右側に五輪塔「先祖代々菩薩」。墓所正面左側に和型墓の正面に観音彫り、右側「俗名 橋本ユキ / 清心院妙鏡日操大姉 / 大正十四年十二月十八日歿」。人事興信録にはユキは橋本梅太郎の娘で病死と書かれている。墓所左側に墓誌が建ち、橋本梅太郎とトメの長男の橋本夏雄(S58.11.30歿・行年69才)から刻みが始まる。戒名は信徳院法夏信士。夏雄の妻はミサヲ(H18.1.22歿・行年79才)、娘は伴子(H2.9.29歿・行年37才)。

*浅野財閥は戦後の財閥解体で、'46.11 浅野財閥の本社は第二次指定会社に入り、同.12 浅野財閥の商社であった浅野物産は第三次指定会社に入った。'47 浅野物産は朝日物産を独立させたが、'61 その朝日物産と対等合併し、東京通商となり、'65 東通と改称したが、この年に鉄鉱石輸入取扱高では三井物産・三菱商事に次ぐ三位で、旧浅野財閥の日本鋼管(JFE)と協力して、ペルーのマルコナ鉄鉱山とオーストラリアのゴールズワージー鉄鉱山の開発輸入を進めていた。この頃、丸紅飯田(丸紅)は鉄鉱石輸入により鉄鋼企業と関係を築いて、鋼材の国内流通に参入しようと考えていた。そこで日本鋼管・東京銀行・富士銀行(旧安田財閥)の斡旋によって、'66 東通と丸紅飯田(丸紅)が合併して、丸紅飯田が日本鋼管の主力商社になった。1970年代前半には丸紅は三井物産・三菱商事と並んでスリーエムと称される総合商社トップ3の一角になり、現在の丸紅は三菱商事、三井物産、伊藤忠商事、住友商事と共に五大商社のひとつである。

<丸紅通史・丸紅株式会社沿革図>


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