尾張国(愛知県名古屋)出身。高等師範学校・同研究科卒業後、教育学研究のため英米独の各国に留学。帰国後、福井県尋常師範学校教諭、学習院教授、愛知県立第一師範学校教諭などを経て、1905(M38)広島高等師範学校教授となる。同時に広島高等師範学校附属中学校初代主事に就任した。
明治後期に春山作樹と学校体系に占める中学校の位置をめぐって中学校論争を行った。これは、1899(M32)中学校令改正により、中学校の目的規定が従来の「実業に就かんと欲し又高等の学校に入らんと欲するものに須要なる教育を為す所とす」から、「男子に須要なる高等普通教育を為すを以て目的とす」に改められた。
これに対して、この「男子に須要なる高等普通教育」を行う教育機関の固有の目的とは一体何なのか、高等普通教育とはどのような教育を意味するのかという疑問が多く提起されるようになり、それについての様々な解釈がなされるようになった。
この解釈が過熱した '07(M40)から翌年にかけて、同じ広島高等師範学校の教育学担当教授である春山作樹が発表した「中学校の地位」と題する論文を『教育学術界』誌上に発表をし、それを読んだ長谷川は、同じ『教育学術界』(第15巻第4号 明治40年7月刊行)誌上に「中学校は予備校なるか」なる反論する論文を発表した。
これは、'05.9.30広島高等師範学校教育研究会第1回大会にて長谷川講演への春山の批判(「中学校の地位」)に対して、反批判を試みたものである。以後、春山の第二論文「再中学校の地位を論じ長谷川教授に答ふ」、長谷川の第二論文「再び中学校の制度を論じて春山教授の再考を促す」。
春山の第三論文「三たび中学校の地位を論じて長谷川教授の再読を促す」、長谷川の第三論文「余が中学校論を結ぶ」と、学校体系の占める中学校の位置の論争を展開した。
しかし、この応酬は相互の相手の説を中傷するに終始した展開になっていったため、春山が「猶論争を継続するの必要をも認めず」と論争打切りを宣言し、長谷川がそれに応じたため一応の終了を迎えた。
なお、この論争の内容を整理してまとめると、直接争点となったのは、中学校教育そのものの捉え方ではなく、中学校教育に続いて、或いはそれと並んで行われるべき職業準備教育(専門教育・職業教育)のあり方、論争に即して具体的に言えば、その形態(「実地見習」の有効性如何)と開始時期(尋常小学校修了段階の是非)であった。
両者は共に、中学校教育の中身を高等普通教育と捉え、その目的とは「心身発達の未だ完成せざる少年男子に、自然の化育を助けて、健全なる身体と、精練せる知識と、堅固なる徳操を養ふ」ことにあるとし、また、それが特定の職種に就業するための直接的な準備とはならないことも認めていたが、中学校教育から欠落した職業準備教育を、中学校教育とかかわらせ如何に組織するか、という点に至って、厳しく対立したのである。
長谷川の中学校論について想起されるのは、中等教育における機会の普遍化、及び中等学校体系の単線化の主張である。その後の日本で中等教育の機会の普遍化が政策レベルで提言されたのは、'38(S13)の後藤文夫らが教育審議会においであるが、長谷川の中学校論はそれを、内容的には異なるにせよ先取りしたものであったのみならず、中等教育を中学校において単一的に行うことを展望している点では、戦後の現代実現している「六・三制」の単線型学校体系構想にも連なるものであった。
しかも、この戦後義務教育の「六・三制」のモデルとなった米国の「六・三制」の形成は、「イデオロギーとしての青年前期の概念」を定立したスタンレー・ホールの「青年期」研究からであるが、この研究で長谷川の中学論が依拠していたのである。
すなわち、スタンレー・ホールは長谷川の中学論を参考にしながら研究をし、その発表したものが米国の「六・三制」に採用され、戦後、現代の日本の「六・三制」につながるのである。なお、長谷川のホールへの言及は1905(M35)であり、わが国での青年心理学への着目として、最も早い例に属するとも言われている。
更に長谷川の論で注目されるのは、春山との論争の1年半後に、『教育学術界』誌上に「中学校を論ず」を発表。その内容は、中学校教育の義務化の提唱であり、それを実現する方策が具体的に構想されていたことである。
'25(T14)青山師範学校学校長に就任。昭和初期に師範大学論争が起こるが、その際も、再び春山と論争を展開している。著書に『新教育学大綱』『教育学講義』『新編女子用教育学』『戦後に於ける教育思想及方法の革新』がある。正4位 勲3等。享年69歳。