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Wilson, Farney Grey

ウィルソン,F.G.

Wilson, Farney Grey

1868.2.10(慶応4)〜 1957.12.5(昭和32)

明治・大正・昭和期の婦人宣教師

埋葬場所: 外人墓地区 1種 18側

 「ミッチイMittie」の愛称で親しまれた。父はイースト・テネシー・ウェスレヤン大学の初代学長であったが、のち実業家となった。 兄弟、姉妹と共に1884〜86年までドイツ、フランスに留学。
 1887(M20)家族で世界旅行の途次来日した折、女学校に外国人教師が不足しているのを痛感し、自らその任に当ることを決意して北海道遺愛女学校(遺愛学院)に3ヵ月、横浜警醒小学校に6ヵ月無給奉仕で教鞭をとり、いったん帰米。 93再度来日して東京英和女学校(青山女学院)の教師となり、1900から3年間校長を務め、宗教教育に力を注ぎ、音楽教育においても初めてトニック・ソルファ方式を採用した。 その在任中、女学院生徒の間にペンテコステ同盟会が結成され、そのうちから12名の信者が生れた。
 寄宿舎の建設、創立25周年記念誌の編纂など多くの事業を達成して女学院を退職、青山学院のR.P.アレクサンダーと結婚して学院構内に居住。 その後は<全国母の会>会長に就任し、専らその運動に献身した。これは日本全国の母に呼びかけ組織したもので'34(S9)頃は会員約7000名であった。 また今日守られている母の日は'12(T1)ドレーパー,G.F.(Draper,G.F.)夫人によって日本に紹介されたが、それを広め育成したのはウィルソンである。弘前女学校(弘前学院)校長であった2年間と 4年間の欧州旅行以外は青山を離れることなく婦人会運動に尽し、89歳の高齢で召天。多磨霊園に夫のアレキサンダーと共に葬られている。

<日本キリスト教歴史大事典>
<来日メソジスト宣教師事典>
<MATSU様より情報提供>


 


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