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うらべ たかお

浦邊襄夫

うらべ たかお

1871(明治4.6.23)〜 1945.1.31(昭和20)

明治・大正・昭和期の実業家(皮革・製靴)

埋葬場所: 3区 1種 8側

 千葉県出身。菰田貞藏、いち の二男。旧姓は菰田(こもだ)。1906(M39)浦邊喜平の養子となる。なお、妻は くに で、浦邊喜平の長女。'10.4婿養子として家督を継ぐ。
 1897早稲田大学邦語政治科を卒業し、合資会社櫻組に入る。入社した合資会社櫻組は西村勝三が経営していた靴製造会社である。西村から「浦邊のような辛抱人は、今日の書生には滅多にない」と言わしめるほど、辛抱強く真面目な働き人であった。副支配人の時に日露戦争時に靴の需要が激増し、その儲けを利用して現株売買を試みた結果、巨万の富を得た。1907.4.1櫻組、東京製皮、大倉組の皮革部門が合併し、日本皮革株式会社(ニッピ)が設立された際、櫻組の浦邊は日本皮革入りを断り、櫻組の名称を譲り受け、自らの資金により、二か月後の6月に改めて合資会社櫻組を丸の内に設立し社長となった。'10桜組工業株式会社に改組。
 '11.10.20(M44)明治製革株式会社を創立し専務、後に社長となり、向島に本社工場を建設。当時の靴業界は茶利皮という軍用甲革は国内で鞣されていたが、一般向けのクローム革や底革(メリケン象皮)や甲革はほぼアメリカや欧州からの輸入品に頼っていた。浦邊はメリケン象皮と同品質の靴底革を国内生産化を目指した。技師長の福島松男、技師にリチャード・R・レイを迎えて開発に乗り出し、'12「えびす印」、'14(T3)「ライオン印」として底革を売り出した。日本皮革の「鳳凰印」との底革販売競争を10年足らずで押さえ、メリケン象皮の国内トップシェアとなった。
 '14第一次世界大戦によりロシア軍からの大量発注を受け、皮革・製靴業界の好景気に湧くも、4年後、ロシア革命により製造した軍靴の引き取り手が無くなり大混乱が起き大打撃を受けた。明治製革は打開するため新たに高級クローム革の生産計画に乗り出し、「ライオン印クローム革」の販売を開始、外国品のクローム革を凌ぐ大きな反響を呼んだ。しかし、'22.9ロシア帝国の崩壊により大損害を受け明治製革の臨時株主総会において、浦邊は社長を退任した。同じくして重役3名も退任した。退任した重役の福島松男は千代田機械製靴(チヨダシューズ)、宮沢胤男は東京スタンダード靴を設立(後に明治製革の社長になる)している。この騒動によりクローム革の製造が中止となる。
 社長退任後は土地興業株式会社取締役、東京地下鉄道取締役などを務めた。享年74歳。

<人事興信録>
<時勢と人物>
<明治製革の歴史>


*墓石は和型「浦邊家」。右側に墓誌がある。戒名は襄法院清徳日桜居士。妻はくに(1945.3.11歿)。なお墓誌は「浦辺襄夫」で刻む。


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