メイン » » » 内田定槌
うちだ さだづち

内田定槌

うちだ さだづち

1865(元治2.1.17)〜 1942.6.2(昭和17)

明治・大正期の外交官

埋葬場所: 3区 1種 17側

 豊前国小倉の出身。内田甚蔵の長男。1889(M22)7月東京帝国大学法科大学を卒業。 同年7月外務省取調局勤務を命ぜられた。翌年9月には副領事として上海領事館に在勤することになり、爾後1893年11月から京城、1896年11月からはニューヨークに在勤した。 京城領事館時代には閔妃事件の事後処理に苦心・努力し、ニューヨーク在勤中には米貨公債証書のデザイン印刷等を担当した。 1906(M39)12月ブラジル弁理公使に任ぜられ、翌年には特命全権公使となった。公使在任中、ブラジル家族移民開始に努力し、'08初の日本人移民団がブラジルへ渡った。 ついで、'12年1月スウェーデン公使に任ぜられ、第一次世界大戦勃発時には日独間の通信に努力した。 '20(T9)12月トルコ出張を命ぜられ2年半ほど在勤。その間、'22には平和条約実施委員となり、'23には特命全権大使を命ぜられる。 トルコから帰国後、'24(T13)4月に退職。勲一等瑞宝章受章。

<新版日本外交史辞典>
<MATSU様より情報提供>


墓所

*蔵状の墓に「内田家之墓」。右側に墓誌がある。戒名は大功院殿機外全道大居士。「正三位 勲一等」とも刻む妻は陽子。父の甚蔵は分骨と刻む。

*内田定槌の邸は洋館で「外交官の家」と称され、1910(M43)東京渋谷区南平台に創建。内田と親交があったアメリカ宣教師で建築家、立教大学校長も務めたジェームズ・マクドナルド・ガーディナーに依頼。 洋館はアメリカ・ヴィクトリア様式。バラをモチーフにしたステンドクラスや玄関扉のすりガラスは内田家の家紋 「丸に剣三つ柏」を使用している。1997(H9)孫の宮入氏により横浜市に寄贈され、神奈川県横浜市山手のイタリア山庭園の中に移築・復原された。2階は内田定槌の資料を集めたギャラリーとなっている。


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・あ行 | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。