メイン » » » 打田霞山
うちだ かざん

打田霞山

うちだ かざん

1854(安政1)〜 1935.4.8(昭和10)

明治・大正・昭和期の銅版藝術家、石版印刷家

埋葬場所: 22区 1種 7側

 江戸本郷出身。通称は新太郎。霞山は号。少年時代から木版彫刻師の木村嘉平の弟子となって木版彫刻を習い、1867頃から嘉平の弟子で銅版畫家として日本最初の銅石版印刷會社をおこし近代精密印刷術の端緒を拓らいた人物として著名である梅村翠山(1839〜1906)に銅彫を学んだ。
 若くして「大久保利通像」など優れた作品を多数残したが、1871(M4)翠山と同じく、海軍水路局に出仕して「輿地航海圖」などを彫った。この時18歳であり、明治新政府から航海圖の作製を依頼されて腕車を驅つて往復したとされる。
 1874(M7)翠山が銅版技術改良の志をたてて、門人の中から研究生としてアメリカに渡らせる計画をたてた。 3月、霞山は海軍水路局出仕を投げ打って進んで研究生となり、もう一人の中川耕山と共にアメリカに渡った。 しかし、アメリカは銅彫印刷より、はるかに精密な石版印刷の時代となっており派遣された二人は現地で困惑する。 そこで、耕山は翠山にこの事情を報告するため帰国し、霞山は現地に残る選択を取った。 現地に残った霞山はお金が尽き、道路掃除人夫になり、またコックの手傳人になったりしながらも、現地の石版印刷を調査しまた人脈を構築した。 ようやく、耕山の復命により翠山は「彫刻会社創立」を決心した。この報は霞山にも伝えられ、同年9月の帰国時に、当時世界的な名工と謂われたオーストリア人の彫刻師オットマン・スモリックと、アメリカ人の一流の印刷工チャールズ・ポラードの二人を伴って帰ってきた。 これにより、翠山の銅彫印刷の改良は、思いがけない石版印刷となって出現した。これを成功させた要因は門下であった霞山の功績が大きい。 銀座四丁目に創立した彫刻会社は、翠山を社長とし、霞山と耕山を、傳習生として出発。ハイカラと注目された。
 1879(M12)外人技術者の高給が不払いとなり、会社は国文社と合併。二人の外人と弟子の耕山は国文社へ移り、霞山は師匠翠山を顧問として第二彫刻会社を立ち上げた。享年82歳。
 打田霞山の妻であるしげ(同墓)は、師匠である木村嘉平の娘である。嘉平の長男であり、義兄の庄太郎は、四代を襲名して春海と号した。末っ子で義弟の赤次郎は父に劣らぬ木彫の名手といわれ、五代嘉平を襲名した。

<徳永直『光をかかぐる人々』>


墓所

*墓所正面に古い墓石を挟んで「打田家墓」が建つ。右側に自然石の墓石、正面に「霞山打田新太郎」と刻む。裏面に「昭和十年四月八日没 享年八十二歳」とある。


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・あ | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。