高知県高知市街九反田出身。小谷家は先祖代々安芸備後守國虎に属して食邑を賜ふ。小谷四郎左衛門正春は永禄年中浪人仕り、其後、長曾我部元親に仕ふ。のち浪人し、山内豊昌公御代、1680(延宝8.12.26)山内家に仕ふ。祖父はの7代目 小谷善五郎正臣(同墓)。父の小谷正元(同墓)は善五郎の長男で近衛歩兵大尉の軍属。母は睦(同墓)。長男として生まれる。1912(T1)家督を相続する。叔母の鈴子(1840-1885)は政治家・伯爵の板垣退助の3番目の妻。
1892(M25)高知県尋常中学校(追手前高校)を卒業し、1894 福岡県で創業した土木建設業会社「間組(はざまぐみ)」社長の間猛馬(はざまたけま)と縁戚であることもあり頼って入社。若手社員として実力をつけ、1903以降は朝鮮の工事に従事し、鴨緑江橋梁など大工事に取り組み、一躍頭角を現した。この頃よりキリスト教に入信し、精神的にも新生面を開いた(朝鮮京城の地で前妻と長男を亡くしている)。
'17(T6)間組組長、幹部、後援者らを説いて合資会社「間組」創立の立役者となり、代表社員として活躍。'20 東京に本社を移転するに伴い上京。土木業協会常務理事にも就いた。
'31(S6)事業発展を土台に、資本金200万円で「株式会社間組」に改組して代表取締役社長に就任した。'41 会長になってからも、社長不在時代の会社を20年間指揮した。間組のトップとして28年にわたり、小谷時代を形成、多くの人材を育成。
国内の施工数は戦前では業界1位、戦後も業界2位を誇った中堅ゼネコンの建設会社として飛躍をさせた。戦前から土木工事全般(ダム、トンネル、橋梁)の名門として知られ、特にダム建設は業界トップであり、黒部ダムや御母衣ダムなど数多くの実績をつくった。享年87歳。
*墓石正面「小谷家墓」。右側に墓誌が建つ。墓誌の初めに「小谷善五郎正臣他先祖累代之霊 昭和五十五年七月 高知市筆山墓地より改葬」と刻む。墓誌は小谷正元(善五郎の長男・清の父:T9.1歿・享年62才)、正元の妻の睦(T13.5歿・享年70才)、2才で早死した清の長男の正義(M41 朝鮮京城歿)と続く。清は小谷正元長男、享年88才と刻む。清の前妻は はる(石原嘉七長女:T8.9朝鮮京城歿・享年36才)。後妻はショウ(大塚本太次女:M19.2-S54.1東京歿・享年92才)。清の長男は小谷金馬(M41.3-S63.11.11:正義も金馬も両者とも清の長男と刻む。正確には金馬が次男)、金馬の妻は千鶴子(H4.11.10歿)、清の三男は小谷守彦(T4.1-S54.11.28)、守彦の妻の廣子は窪田学三次女。守彦と廣子夫妻は、昭和54.11.28南極ロス島エレバス山にて航空機事故の為没した。守彦が享年64才、廣子が享年62才。なお、二人の次女の澄子は2才で亡くなっている(S21.8)。清の四男は小谷達(H21.11.21東京歿・享年92才)。全員同墓に眠る。
*間組はカタカナ名「ハザマ」として知られ、戦前戦後を通じて土木分野の業界大手を誇った。青函トンネルや、当時世界一の高さを誇ったマレーシアのペトロナスツインタワーなども手掛けた。城の復元工事も定評があり、鉄筋コンクリート構造の名古屋城、会津若松城や、伝統工法による木造復元の白石城、伊予大洲城などが知られている。1992(H4)7000億円の売上高をピークにバブル崩壊後、経営が著しく悪化。部門を切り離すなど再建を目指す。2013.4.1 資本業務提携先である安藤建設と対等な合併計画を発表し、吸収合併の方式による合併(存続会社は間組)で、商号は株式会社安藤・間として現在に至る。