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おさかべ じん

刑部 人

おさかべ じん

1906.5.5(明治39)〜 1978.3.8(昭和53)

昭和期の洋画家

埋葬場所: 18区 1種 30側

 栃木県下都賀郡家中村大字家中(都賀町)出身。祖父の刑部真澄(同墓)は名主として初等教育に力を入れた教育者。 父も地元の尋常小学校校長などを務めていた教育者の刑部真一・フキ(共に同墓)の4人兄弟の長男として生まれる。
 1918(T7)12歳の時に父の東京赴任に伴い上京。日本画家・俳人の川端龍子を訪ね師事。'19東京府立第一中学校に入学し、同級生で後に作家となる高見順や岡本武夫と出会い、交友は後年まで続く。 '22より川端玉章が設立した川端画学校に学ぶ。'24中学を卒業し、東京美術学校西洋画科に入学。和田英作に指導を受ける。'28.4(S3)特待生となり授業料免除となる。 同.10 第9回帝展に「友人の肖像」が初入選。翌年、東京美術学校西洋画科を次席で卒業。同年、同校西洋画科研究所に入学。'30退学。その後も毎年帝展に出品。
 '40芝浦の東京高等工芸学校(千葉大学工学部)助教授となるも、'45.3戦争悪化のため退官し疎開。疎開先の栃木県立栃木高等女学校教諭となる。終戦後、退職し上京。
 '46第1回日展(日本美術展覧会)に「冬の軽井沢」を出品し特選となる。'48第4回日展に「渓流」を出品し特選。'51第1回個展を開く。 以後、毎回、東京日本橋の三越で個展を開催する。洋画家の金山平三と親交が厚く、共に写生旅行などを行った。
 '58より新世紀美術協会に委員として参加。'67日展審査員。'68新日展会員。'73日展審査員。'76フジテレビ「テレビ美術館」に出演し作品が放映される。 同年70歳を記念して「刑部人記念展」を開催。同年末に栃木県立美術館に作品18点を寄贈。'77紺綬褒章。翌.2.5腸閉塞のため日本医大第2病院に緊急入院、同.3.8横行結腸癌から腎不全を併発、同病院で逝去。享年71歳。 没後、勲4等瑞宝章追贈。同.3.14千日谷会堂で、美術評論家の大島清次を葬儀委員長に告別式が執り行われる。遺族より栃木県立美術館に作品23点が寄贈された。没後も回顧展が開催されている。

<20世紀物故洋画家事典>
<「刑部人年譜」大塚信雄編(日動出版刊)>


墓所 墓誌

*墓石は「刑部家之墓」。左に墓誌、右に「刑部人画伯頌」と題された碑が建つ。墓石は昭和十六年十月に刑部人が建之。

*1931(S6)京都出身の島津源吉・トミの長女の鈴子(同墓)と結婚。島津源吉は発明家であり島津製作所3代目社長。鈴子の兄の島津一郎は画家を歩んでいたが、時局急変に伴い島津製作所に入り、後に専務取締役、監査役、顧問となった。鈴子との間に3男2女を儲ける。三男の刑部佑三は画家。


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