朝鮮京城(ソウル)出身。旧姓は鈴木。母の生家は愛知県岡崎の機業家だったが、養子の父が商売に向かず、一家で朝鮮京城(ソウル)に渡った。その地にて次女として生まれる。
京城第二公立高等女学校卒業後、朝鮮総督府の御用団体である緑旗連盟で機関誌の編集に携わり、週一回を京城帝国大学聴講生として通って、「万葉集」などを学んだ。敗戦にて引き揚げる。
1947(S22)兄の友人である長田喜憲との文通をきっかけに結婚。夫は東京都福生の米軍基地勤めから職を転々とし、苦しいやりくりをしながら二子を育てる。
夫が相模原市に新設の防衛庁技術研究所に技官として勤務することになり、'60より相模原市に移住。
36歳の時に、相模原市主催の歴史講座に通い始め、独学で古文書の解読を進め、相模野に生きた庶民の女たちの声に耳を傾け、その姿を丹念に書き留めた。
'62相模原市に非常勤で雇われたが、まもなくして『相模原市史』の編集補助員となる。古文書の整理分類、目録作成、解読筆写のほかに編集作業も任され、週三日勤務であるにも関わらず、毎日出勤して昼食抜きで働いた。
この時の回想を「悪夢のような十年間」と振り返り、上司の先生の執筆分の30%の下書きを書き原稿を渡すと、「わしと発想が同じじゃ」と喜ばれたとエピソードがあるが、多忙で苦しかったと振り返っている。
市史刊行が終わり、'74からは史料調査員(のち専門員)と立場も安定。'78神奈川県主催「婦人の明日をひらく記念論文」に「あたりまえの女だから―庶民の女性史を求めて」を応募して最優秀に選ばれたのに力を得て、女性史研究に歩を進める。
'80市域の女19人の聞き書きを中心にした『母たちの時代―聞き書さがみ野の女』を自費出版。養蚕、糸取り、機織りなどに昼夜なく働いた「おっかさん」たちの姿が反響を呼び、以後、『神奈川県史』『夜明けの航跡』の執筆や市の女性史講座の講師をつとめる。
'98(H10)『ひたむきの年輪―ぬくもりの相模原近代女性史』を刊行、文献資料と聞き取りを駆使した庶民の女の近代史と注目された。2001(H13)約二万点の古文書から結婚や離婚だけでなく、夫婦喧嘩や駆け落ちをする、意外に「たくましく、大らか」な近世農村女性像を拾い『相模野に生きた女たち―古文書にみる江戸時代の農村』を発表。
'96相模原文化彰受章。夫没後の二年後に逝去。享年80歳。没後、ご遺族の寄付により、相模原市立博物館に約23000点の古文書を収録した目録が実現した。