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おおしま じきた

大島治喜太

おおしま じきた

1889(明治22)〜 1939.2.10(昭和14)

大正・昭和期の剣道家

埋葬場所: 16区 1種 15側 20番

 佐賀県出身。 栄城中学校卒業後、武徳会武術教員養成所で剣道を修行した。同窓に持田盛二、堀正平らがいた。青年大会で23人を勝ち抜き優勝を遂げるなど、若くして天稟の才を認められ、卒業後の1919(T8)同所教授、剣道教士となった。
 '29(S4)御大礼記念天覧武道大会指定選士の部に出場。優勝候補に挙げられたが、リーグ戦で持田盛二と剣道史上に残る名勝負を繰り広げて敗れる。 '32剣道範士の称号を授与され、さらに銃剣術教士、居合術教士の称号も授与された。'34皇太子殿下御誕生奉祝天覧武道大会特選試合(模範試合)に出場し、植田平太郎と対戦した。また特に選ばれて少年の指導稽古を天覧に供した。
 警視庁、皇宮警察、陸軍戸山学校、陸軍士官学校、東京帝国大学の剣道師範、国士舘専門学校の教授を務め、また自宅に建武館を設立して青少年の指導に尽した。
 「一に持田(盛二)、二に堀(正平)、三に大島(治喜太)」と謳われた武専三剣士の一人で、剣先から火が吹き出ると称された剛剣。将来の大成を期待されたが、'39(S14)急逝した。 享年50歳。

<平凡社『日本人名大事典 現代』>
<講談社日本人名大辞典など>


墓所

*正面大きな和型「剣道範士 大島治喜太」とあり、右面に戒名の剣徳院釋喜道居士。没年月日、行年が刻む。行年は五十一歳。右隣りに小さ目の和型墓石が建ち、前面に夫妻の戒名が刻む。 右面に明治29年8月16日歿の大島平治の刻みがある。両親の墓石であろうか。左手前に墓誌も建つ。治喜太の妻である大島ハル(S54.10.18歿)と、息子で建武館館長・建武会名誉会長を務めた大島日出太(H23.11.11歿)の刻みがある。


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