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おおさわ のぶみつ

大澤伸光

おおさわ のぶみつ

1925.7.10(大正14)〜 1987.7.19(昭和62)

昭和期の実業家(大野屋)

埋葬場所: 13区 1種 50側

 東京出身。本名は大澤静雄。甲種海軍飛行予科練習生(14期)卒業。1945(S20)終戦後、家業の石材業に従事。大野屋は、1939.3(S14)先代の大澤良丈(1985.7.17歿 同墓)が多磨霊園の裏門前に創業。大澤伸光は2代目である。
 '49大野屋、'64メモリアルアートの大野屋を設立、(株)メモリアルアートの大野屋代表取締役社長など各代表を務める。社名は記念、記憶、追憶などを意味する「メモリアル」と芸術、技術を意味する「アート」を組み合わせ旧来の墓石、石屋の暗いイメージを一新、新しいお墓の在り方を主張するために命名され、スフィンクスをシンボルマークに制定した。
 '69建墓ローンの取り扱い、車額広告の提出を業界で初めて行う。'73テレビCMを開始。小林亜星、滝田ゆう、ミヤコ蝶々各氏起用で評判となった。'75首都圏石材協組創立、理事長に就任。'76仏壇販売を開始。'79関東の石材屋としては初めて、関西に進出し、大阪支店を開設した。'85「建墓プラン・ピラミッド」を販売し、保険事業を開始するなど幅を広げた。著書に『安心できるお墓の建方祀り方』『めもりあるメモリアル』などがある。享年62歳。

<物故者事典など>
<森光俊様より情報提供>


*墓石は「大澤家之墓」。戒名は大伸院静巌融光居士。


【多磨霊園と石材屋】
 多磨霊園(当時は多磨墓地)の開設当初の近隣は武蔵野の野原であったので、わずかの民家があるにすぎなかった。何もない田舎の地に、市内から遠路はるばる足を運んでくる墓地利用者のためにと、東京都(当時は東京市)は墓地附属休憩所の用地として、墓地開設とともに、その敷地を提供したのが多磨霊園の石材屋(休憩所・茶屋)の始まりである。
 現在はこの大野屋をはじめ、霊園の外を取り囲むように、また霊園の入口から駅に向かって石材商が軒を並べているが、当初はこれほどまで石材商が集うとは予想もしていなかった。 よって、1923(T12)東京市は公報をもって墓地附属休憩所敷地使用希望者の申し込みを募集した。募集は二か所である。一か所は現在も多磨霊園正門入って左手にある「大森休憩所」である。 もう一か所は商売が長続きせず、石材組合の事務所として使用されていたが、敷地を東京都に返還し建物は残っていない。
 多磨霊園開設前は、例えば青山霊園などでは、石屋と茶屋(休憩所)は分かれて営業をしていた。そのため石工事の注文は、ほとんど茶屋の手を通すこととなり、その分の利益が少なかった。 この不都合を避けるため、多磨霊園前では店を開くときから石屋が茶屋を兼ねた。現代では当たり前のこのシステムが最初に始まったのが、この多磨霊園からである。
 1962(S37)多磨霊園では受託制度が廃止され、使用は公募抽選制になった。実は、それ以前は、無縁墓地もしくは墓地返還される場所は、主に石材屋がその場所を受託し、新しく譲渡することができた。 著名人の墓が多磨霊園に多くあるのはそれも理由のひとつである。しかし、石材屋同士の過当競争の過熱化や、地上げ屋まで出てくるなど問題があり、全て都が管理することになったのである。

<『多磨霊園』村越知世>


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