≪詳細な略歴は調査中≫
1928.3.28(S3)文部大臣より高等女学校として認可され、神奈川県川崎市に私立中原高等女学校を創立。同.4.28中原高等女学校を設立し理事長・初代校長に就任。
'42.11.20財団法人大西学園認可となり、4ヶ年制と5ヶ年制とを併設した高等女学校となり、生徒数が千数百名を数える大学園となる。
戦後、'47.4.1学制改革により、学校法人大西学園と改制されて、大西学園中学校設置が認可される。以降、高等学校、幼稚園、小学校を設置し、総合学園となる。享年61歳。
'56大西浩太死去に伴い、妻の大西もとへ(同墓)が校長に就任。'95大西もとへ死去後は、息子である大西浩が校長に就任した。
大西学園の校章は中国の故事『蛍雪の功を積む』にちなみ雪の結晶の中に蛍を配している。純白の気高さと、夜道に光る蛍のように社会の灯となり世の為、人の為に役立つ人間になるようにとの創立者の大西の願いがこめられている。
*墓石は和型「大西家之墓」。墓石の裏面が墓誌となっており、26歳の若さで亡くなった長女、大西浩太、大西もとへ、志村結子の順で戒名、俗名、没年月日、享年が刻む。戒名は武光院殿學浩道大居士。
*墓所内には大西浩太・もとへの長男で大西学園第3代目校長の大西浩建之の「父へ」と題された墓誌碑が建つ。
「万人を心から愛し、慈雨の如く波のとも、尽きぬ暖かみのある人。剛毅果断、世の為人の為には我を顧みず、唯只管に尽力する人。戦後の混乱、未曽有の日本の危機に際して、戦災復興の為に米軍司令部を始め公官庁を駆け回り、日本の教育、神奈川私字の為に各学校の興亡を担い、獅子奮迅の活躍をし、多数の人々の期待、願望に余す処なく応えた。その功たるや誠に甚大で鬼神をも泣かしむにの感があった。斯くして、父(浩太)は教育に生き、科学に生き、偉大なる父として逞しく生き、そして黙として土になり、無に還った。父を偲び碑を贈る。一九九〇年秋彼岸 浩 建之」