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おおはし こしろう

大橋顧四郎

おおはし こしろう

1875(明治8)〜 1931.8.22(昭和6)

明治・大正・昭和期の陸軍軍人(中将)

埋葬場所: 3区 1種 25側 9番

 香川県出身。1902.12.22陸軍砲工学校(10期)優等で卒業(当時の人事面では砲工学校高等科を優秀で卒業した者は陸軍大学卒業と同等の扱いを受けたため、陸大には進んでいない)。砲兵中尉任官。
 兵事の研究の為フランスに留学。帰朝後は様々な軍歴を経て、1918.7.25(T7)野砲25連隊長となり、'19.1.15大佐に進み、同.1.31兵器局政課長となった。 '22.2.8野重砲第2連隊長、'23.8.6少将に昇進し、野重砲第4旅団長、'24.2.4兵器局長を歴任した。'28.8.10(S3)中将に累進し、陸軍砲工学校校長に就任(1941.8.1陸軍砲工学校は陸軍科学学校と改称し、'44.10.31閉鎖された。)。 '30.8.1教育総監部砲兵監となる。'31.8.1科学研究所長となるも、同月に逝去。正4位 勲2等。享年56歳。青山斎場にて陸軍葬が営まれた。

<帝国陸軍将軍総覧>
<碑石など>


墓所

*墓石は和型「大橋家之墓」。左右に燈籠が建つ。左の燈籠の手前に「墓誌銘」と題された大橋顧四郎の碑が建つ。碑は陸軍大将の緒方勝一の書で略歴が刻む。右の燈籠の手前に墓誌が建つ。戒名は大有院殿顧道忠誠大居士。妻は塁。

*墓誌より、大橋家は香川県小豆郡内海町(旧草壁村)神縣通出身。平成三年三月に、同郡内海町西山墓地より改葬した旨が刻む。よって、ここの墓には、大橋顧四郎の祖父母の大橋四作・町子、父母の大橋覚太郎・倉子も眠る。

*長男の大橋策郎(1912-1999.3.9 同墓:興台院秀策明勲居士)は陸士44期で、第4師団動員参謀などを務めた。陸軍中佐。戦後、偽名の喬本を名乗り、白団(パイダン)の一員として台湾の軍事顧問に極秘で付き、蒋介石の下、台湾軍の整備・指導を行った。

*白団(パイダン)とは台湾軍をつくった日本軍将校たちの秘密機関であり、富士倶楽部と名づけられた。敗戦とGHQの占領により軍がなくなった日本において、密かに旧軍時代の体験と研究成果を残そうというものであった。 1949(S24)末〜'69(S44)初頭まで、総勢83名の日本軍将校が台湾に渡り、蒋介石率いる中国国民政府軍を陰で支援した。日本軍将校らは全員中国名の偽名を名乗り、活動は極秘とされ、家族にも知らしていないケースもあった。 当初は台湾軍の再建が目的であったが、新たに若い兵士を集めシステムの確立をすることになった。そこで抜擢されたのが、大橋策郎と山下耕である。 動員参謀の経験より、「台湾における動員のあり方」や「動員演習」を直ちに実施する特命を受けた。蒋介石は実践学社に「国防部動員幹部訓練班」を設立し大橋らは担当教官に就任。 '52〜'60幹部養成を常時実施し、動員教育を受けた人数は総計で700人以上であるとされる。また、国防部に動員設計委員会が発足、大橋は顧問として国防部内の実務においても動員体制の整備を行った。動員設計委員会は国防計画局、国家総動員委員会と名称を変えながら発展し現在に至る。

<『白団: 台湾軍をつくった日本軍将校たち』中村祐悦>


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