島根県出身。大橋幸三郎の4男。大橋孫六郎の弟。
近代日本資本主義の父と称される渋沢栄一が設立した第一国立銀行の行員となる。朝鮮の釜山浦支店主任に着任。1881(M14)から二年間、朝鮮の仁川が開港されるに及び、仁川支店を設置するために尽力した。1883.1 第一国立銀行仁川出張所を設ける。同年、政府は開港地の関税や手数料、罰金など、全て第一銀行発行の預かり手形で納付する契約を朝鮮政府と結んでいる。後の日清、日露の戦役を経て、朝鮮が日本に併合される中で、第一銀行から韓国銀行、更に朝鮮銀行と名を改め、朝鮮の中央銀行としての立場を確立させていった。
高岡出張所主任などを務める。1895.12(M28)株式会社高岡共立銀行が設立され、渋沢栄一の推薦で支配人に推され、1896.2.4 着任。同.2.13 開業した。のちに監査、常務取締役、専務取締役を務める。経営手腕は優れており発展させた。'20(T9)高岡共立銀行が高岡銀行と合併し、高岡銀行となった際には常務取締役に就任した。'24.8 取締役となる(高岡銀行はその後、1943北陸銀行となる)。
また北陸信託取締役、高岡理化学工業監査、越中倉庫監査を歴任した。享年80歳。
*墓石は洋型前面「吾ら共に眠る」。左側に墓誌が建つ。大橋半七郎から刻みが始まる。妻は けい子(1863-1940.12.1)東京出身で旧姓は服部。
*子宝に恵まれなかったため、悌(てい:1882-1946.5.28)を養子として迎える。大橋悌は三角方平の次男。東京帝国大学政治科卒業後、養父と同じ第一銀行に入行し銀行家となる。札幌、福岡、門司、釜山、桐生、京都の各支店長を経て、渋沢倉庫監査を歴任した。
*悌の妻は 美濃(1884.5-1962.12.11)、松田周次の三女。悌と美濃の間には三人の子を儲ける。悌の長男は大橋恒(こう:1911.8-1995.3.30)は東京帝国大学文学部卒業後、逓信省に入省した官僚。恒の妻は貞子(H29.10.17没・行年93才)。悌の長女の三重は田中縁に嫁ぎ、悌の次女の雪は大阪大学工学部教授となる小笠原光信に嫁いだ。墓誌には永井誠吾(S42.1.19没・行年79才)、永井志ず江(H12.12.21・行年93才)も刻む。