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おまた まさかず

小俣政一

おまた まさかず

1879.3(明治12)〜 1933.9.2(昭和8)

大正・昭和期の医者、政治家

埋葬場所: 8区 1種 13側

 山梨県北都留郡賑岡村(大月市)出身。小俣佐内、喜久(共に同墓)の二男として生まれる。1908(M41)分家。
 1900(M33)済生学舎で医学を修め、卒業後、東京小児科婦人科院を開業した。東京府医師会理事などを務める。
 医業の傍ら、東京府会議員・東京市会議員に当選し、長く東京市会議員を務めた。この間、「江東公論」を発刊し社長 兼 主筆を務めた。
 1928.2.20(S3)第16回衆議院議員選挙に東京4区から立憲民政党で出馬し当選。'30.2.20 第17回衆議院議員選挙にも連続当選した。同.4 京成電気軌道の浅草乗り入れにおける東武鉄道との競願を巡って起きた汚職事件(京成電車疑獄事件)で収賄に問われた。'31 東京地方裁判所で懲役2カ月・追徴金1200円の判決を受けたが、翌年の東京控訴院で無罪判決が下った。
 '32.2.20 第18回衆議院議員選挙にも東京4区から立憲民政党で出馬したが、426票届かず落選。翌年逝去。享年53歳。

<人事興信録>
<大衆人事録など>


*墓石は和型「小俣政一墓」。「若槻禮次郞 書」も並んで刻む。左面に「昭和十年九月二日 憲政倶楽部 建之」と刻むため三回忌の命日に建てられたとわかる。右側に墓誌が建ち、父の小俣佐内(M43.5.27歿)、母の喜久(M31.9.13歿)から刻み、政一と続く。戒名は智弘院眞乗政道清居士。妻はトミ(M19.12-S51.7.11:秋田出身・三井常松の3女)。家督を継いだ長男は小俣博(M39.7-S50.7.11)。

*小俣政一の「政一」のヨミを「まさいち」と記す人名事典もあったが、ここでは人事興信録の「まさかず」で統一する。


【京成電車疑獄事件(けいせいでんしゃぎごくじけん)】
 京成電気軌道(京成電鉄)の浅草乗り入れにおける東武鉄道との競願を巡って、1930(S5)4月に起きた汚職事件。
 1923(T12)から京成は6度にわたって出願を行っており、この6度目の出願の際に、1928.9.26 政界に賄賂を贈っていたことが発覚。16万円(現在の貨幣価値で3000万円余り)が京成の出願を有利にする為の工作費として政界に渡った。
 東京市議会議員の半数が連座。衆議院では三木武吉・中島守利が贈賄幇助、小俣政一が収賄に問われた。京成の総務部長を務めていた読売新聞社社長の正力松太郎や東京毎日新聞の千葉博巳も贈賄幇助罪に問われた。政財界の大物が逮捕される大規模な疑獄事件となり大騒ぎとなり、京成は浅草への路線建設は実現できなかった。なおその後、1960(S35)開業した都営浅草線への直通という形で浅草乗り入れを実現することになる。


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