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おかやま ひできち

岡山秀吉

おかやま ひできち

1865(慶応1.11.4)〜 1933.5.14(昭和8)

明治・大正・昭和期の手工教育論者

埋葬場所: 6区 1種 9側 9番

 三重県一志郡高岡村出身。中農の家の奥田茂兵衛・てつ子の次男として生まれる。旧姓は奥田。
 地元の高岡村の小学校や夜学校を卒業し、1883(M16)村長の前橋三郎平に勉強好きな性格を見込まれ、高野小学校助教となった。 1887小学校初等科教育免許を取得し、同郡の柚原小学校の訓導に任ぜられた。1889高等商業学校附属商工徒弟講習所に於いて手工科を修業。 手工科の修業を志す者は秀吉唯々一人であった。同年、士族岡山学の養嗣子として迎えられ、岡山と改姓。 小学校に奉職をする傍ら、高等工業学校手工科で勉学もしていたが、養父の看病のため1年間休学をせざる終えなかったり、学校の転勤もあり、1893学校を退学。 この頃より、音楽に興味を抱き、東京音学校教授で東京唱歌会を開いていた鳥居忱に就いて研究を始める。
 1893千葉県尋常師範学校助教諭に任ぜられる。同年、手工科教員の免許状を取得。翌年は千葉県尋常師範学校舎監を兼任。 1895第4回内国勧業博覧会審査第一部品評人を命ぜられ、地方師範学校の一教員の秀吉が楽器の審査員に抜擢された。 1896秋田県秋田市工業徒弟学校教諭兼校長に任ぜられる。1899高等師範学校助教授。1900女子高等師範学校附属小学校手工科の授業を嘱託(〜'05)。 同年、高等師範学校附属小学校の第二部尋常科(当時は1・2年、3・4年、5・6年の3学級複式学級)に手工科を創設し、続いて第3部の単級小学校にもこれを加設し、その教授となる。1901小学校教師用手工科教科書編纂を嘱託(文部省)。 '02東京府教育品展覧会審査委員を嘱託。同年、保護者懇話会にて、当時第一部の父兄であった菊池大麓や箕作嘉吉らから、何故第一部に手工を課せないのかという質問があり、間もなく第一部にも手工を課すきっかけとなった 。'03文部省の任により、この年に開設した師範学校、中学校、高等女学校教員夏期講習会講師となる。'05教員検定委員となる。 '06東京高等師範学校教授となり、'07東京勧業博覧会審査委員。'08文部省視学委員となる。 '11〜'13(M44-T2)手工科研究のため欧米各国に遊学し、手工教育を視察調査した。'14農商務省の嘱託として東京大正博覧会審査官。 同年、文部省の嘱託として第一回師範学校、中学校、高等女学校教員等講習会講師となる。また、秀吉を中心として全国図書手工教育者協議会を催す。
 文部省視学委員、教育検定会臨時委員として各県に出張した。この頃は、秀吉の欧米視察の報告を聴いた高等師範学校の職員たちからの木工講習の依頼が殺到したという。 '18東京盲学校の授業を請け負う。'19内務省の嘱託として第一回感化救済事業職員養成所講師。 '27(S2)文部省から小学校に於ける手工・工業の教授要目並びに標準設備の調査委員を命ぜられる。 '28文部省より長年教育に従事した功労により表彰される。'29後進の進路を開くために勇退をし、東京高等師範学校の講師となる。 '31文部省から中学校に於ける作業科教授要目の調査委員を命ぜられる。'33.3作業科の検定委員になるも、翌月に流感に冒され、遂に肺炎を併発し自宅にて逝去。享年67歳(墓誌には69歳)。正4位 従4位 勲3等瑞宝章。

<岡山秀吉の手工教育論に関する考察(宮坂元裕)>


*妻は同郷の小河かね(1946.2.9没)であり、1891結婚。五男一女を儲けるも、三男(三郎)、次男(秀次郎)、長女(茂登:墓誌にはモト)の順に亡くしている。 長男は學太郎(1896-1954.3.6)、四男は俊雄(1903)、五男は茂夫(1911)。長男の學太郎は、'24(T13)三重県飯南郡の砂崎徳三郎の長女のふし子(1999.3.16没)と結婚。'27長女てる誕生。'32次女ひろ誕生。四男の岡山俊雄は地理学者。

*墓所には岡山秀吉、妻のかね、養父の学、養母のみね、早死した子供たち、長男夫妻など11名が眠る。なお、墓誌より、岡山秀吉は岡山家の九代目の家督を継承したことがわかる。


【手工と岡山秀吉】
 1886(M19)日本に制度が出来て以来、13年目に、手工科を指導する教師の養成学校が設立された。
 手工(しゅこう)とは小・中学校の旧教科のひとつであり、現在の小学校の工作、中学校の技術にあたる。 この頃は、商業学校から工業学校へと学校そのものが生徒と共に移動し、前記したとおり、1899(M32)手工科の教員養成学校が確立する。 当時は手工教育が重要だと言われながらも、岡山秀吉の手工の師である上原六四郎であっても、理科、物理化学、音楽など、その仕事の範囲は広く、図画にも手を伸ばしているという状況であり、手工教育に専念できなかった。 岡山秀吉はこのような時世で手工教育論に注目し続けた人物であり、手工教育の第一人者とされる。


【手工教科書と岡山秀吉の著書】
 岡山秀吉の初めて刊行した本は、1897『普通木工教科書』である。この本は東京金港堂という民間からの発行。 次いで、1901小学校に於ける手工教育の内容を明らかにした『高等師範学校附属小学校手工科教授細目』を出版。 同年、文部省は小学校教師用手工教科書の編纂を上原六四郎に依嘱した。岡山も編纂に協力をするも、教科書が出版されたのは'04(M37)である。 当時はめまぐるしい教育界の変化や、図画教育の出版物の氾濫時期であり、'01〜'04までの間だけでも約70編の図画教科書が民間から出版された。 岡山もこの間に、師である上原と共著にて『尋常高等小学手工製作図』(1903)を出す。
 '04文部省は「手工」が登場してから18年目にして手工教科書である『小学校教師用手工教科書』を発行した。 しかし、これは図画のような児童書ではなく、教師用であった。著作権者は文部省となっているが、緒言に「本書は東京高等師範学校教授上原六四郎及び東京高等師範学校助教授岡山秀吉に嘱託して編纂せしめたるものなり」と明記されている。
 岡山はその後、棚橋源太郎と共著『手工科教授書』(1905)、『手工科教授細案』(1906)を出す。 更に毎年のように出版し、'07『講習用書手工教授法講義』、『師範教育手工教科書』。 '08『小学校に於ける手工教授の理論及実際』、『師範学校手工教科書』、『図書手工連絡教授の実際』(阿部七五三吉と共著)、『手工科教材及教授法』を出す。 '15欧米視察後に発行した『欧米諸国手工教授の実況』により講演講義が増える。 その後も精力的に執筆を続け、'16『新手工科教授』、『手工科新教材集成』(紙細工篇1916)(粘土細工篇1917)(簡易木工篇1919)、'20『新手工科教材及教授法』、'22『最新手工教材 板金穿孔彫刻』、『木材着色・ワニス・ペンキ・漆・蒔桧・塗物術』、'25『最新手工趣味の厚紙建築』、'26『新令準據 高等小学 手工 指導書』、'27『新手工教科書』(多数共著)、『新令準據 続高等小学 手工科指導書』、'29『初等中等手工科教材』、'32『新手工科教科書(改訂)』(阿部・伊藤と共著)、'33『竹工・指物・玩具・挽物・彫刻・塗装・木工術』と死去する年まで手工をテーマに書き続けた。


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