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おかもと やすこ

岡本彌壽子

おかもと やすこ

1909.7.16(明治42)〜 2007.6.25(平成19)

昭和・平成期の日本画家

埋葬場所: 区 種 側 番

 東京青山出身。父は洋画と額縁の輸入商を営む岡本清。九人弟妹の長女として生まれる。彌壽、弥寿子とも表記する。母は若くして病気で亡くなる。弥寿子も病弱であった。
 小学校時代の担任が暇があると教室で自分の靴を写生し、油絵を描いていた。興味を抱き描く様子を飽かずに見ていたことが絵に触れる最初のきっかけとなった。1926(T15)府立第三高等女学校を経て、女子美術学校師範科日本画部に進む。美術の道に進むことを両親に猛反対されたが、教師の資格を取るという約束で認められた。
 女子美術学校二年生の時に「明治・大正名作展覧会」で小林古径の「極楽井」を見て感動、将来教えを請うならこの人しかいないと心に決める。'30(S5)卒業後、知人を介して、小林古径の一番弟子の奥村土牛に会い、小林古径への紹介を頼む。弟子をとらないという小林に奥村の口添えで「作品を見るだけなら」と出入りを許され入門。東京の馬込にある小林の画室の近くに家を借り、作品を描いては小林のもとに通う日々が始まる。この頃、キリスト教の洗礼を受けた。
 '33〜'45 横浜の共立女学校の美術教師を務め、のちに描いた少女の群像はほとんど教え子の共立生をモデルにした。'34 再興第21回院展に『順番』を出品し初入選。以降、院展への出品を重ね、白寿賞などをたびたび受賞。
 '36 生徒の日常に取材した「課外稽古(薙刀)」を制作。何度描き直しても小林の批評は厳しく、ポーズだけで薙刀の精神が伝わってこないとダメ出しをされる。思い立って薙刀師範の旧友を訪ね、武道場での真剣な稽古を一日見続けた。下図を描き直して持ち込むと、小林は線を生かして「白描」風に薄い色で仕上げるよう助言。悪戦苦闘の末、出品したこの絵は二度目の院展入賞を果たした。しかし、この絵は戦時中に自宅より安全と考えて共立女学校に置いたため、'45 横浜大空襲で校舎とともに焼失してしまう。疎開先から帰ってきた小林から「まだ若いのだから、もっと勉強していい絵を描くよう」と励まされる。厳しかった師の小林からの励ましにより、この絵は岡本にとって最も心に残る作品となった。
 戦後は画業に専念。'57 小林が他界した後は奥村土牛に師事。'65 横浜市旭区に転居し、その地で生涯独身を貫く。師事した二人の巨匠から、画技というものよりは精神性や気品のある作風を学んだ。
 風景、花鳥、静物などをまったく描かず、終生人物のみを描いた。人物像は縦に流れるような繊細な線で造形され、モダンな感覚の淡い彩色がほどこされている。男は少年だけで、おおかたが少女か若い女。ほんのわずかな背景や人物の装いにキリスト教を連想させるものが多い。主に清楚なたたずまいの女性たちを題材にし、内面を描き出すことに心を砕き、繊細な筆致とあわい色彩で女性的な世界を描いた。
 '67 再興第52回院展に『花供養』を出品し日本美術院賞・大観賞を受賞。日本美術院同人に推挙された。'76 再興第61回院展に出品した『夢のうたげ』では内閣総理大臣賞を受賞。'86 再興第71回院展に出品した『祈り鶴へのねがい』では文部大臣賞を受賞。その後も年二回の院展に晩年まで出品し続ける。'88 横浜市民ギャラリーにて「清心で描く永遠の女性群像 − 岡本彌壽子展」を開催。'92(H4)横浜文化賞受賞。'97 神奈川文化賞受賞。老衰のため逝去。享年97歳。

<講談社日本人名大辞典>
<「時代を拓いた女たち 第III集」江刺昭子+史の会>


 


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