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おいで たいへき

生出大璧

おいで たいへき

1863(文久3.8.15)〜 1953.1.26(昭和28)

明治・大正・昭和期の教育者、南画家

埋葬場所: 22区 1種 81側 1番

 陸前国桃生郡成田村(宮城県石巻市河北町)出身。仙台藩士の庵原勝三郎の長男。幼名は亀之進。生出家に養子となり玄夫と改めた。本名は生出玄夫。10歳の時に及川松庵の門に入り和漢を学んだ。1876.4(M9)皿貝小学校卒業後、帰農して翌年家督を継ぐ。
 1881 郷里を出て仙台義塾に入り和漢を修め、傍ら、南宗画を山内耕烟に学んだ。1882 名取郡秋保小学校教員として教壇に立ちながら、毎週義塾に通い勉学に励む。1883 皿貝小学校教員となり、及川松庵に和算を学び、1884.12 見題の免許を得た。
 1885 志を持ち上京を考えるが、山内耕烟から東京での苦学もよいが無理であろう。先ず下地を作ってから東京へ行くべきではないかと諭され、仙台に止まり立町小学校に勤務。傍ら、4年間、法律を学んだ。1887.11 小学校教員検定試験に合格し、翌月より栗原郡大岡小学校の校長に就任した。次いで、1888 同郡の宮野小学校長に転任したが、間もなくして辞職し、28歳で上京。
 小山正太郎の不同舎に入り西洋画を学ぶ。1889 仙台同郷会寄宿生の監督を委嘱される。1891.3 文部省検定試験に合格し、翌月より栃木県師範学校助教諭に任ぜられ、高等女学校教師も兼任した。1898.6 新潟県長岡中学校教諭として転任し、1900からは名古屋の中学校や、府立第三高女で教壇に立った。
 教育者をしながらも、多くの南画(中国画・水墨画)を残した。また著書もあり『縮圖』『石亭小傳』『日本風景畫譜』『日誌』『處世活法』がある。享年89歳。
 没後、生出大璧が生前記した「生出大璧画伯遺筆」による遺言によって、宮城県図書館に写生画約1,000点を寄贈された。

<河北町史>


墓所 生出家

*墓石は半円を上部に三段の台座。台座正面「和」に音符が刻む。右面「令和元年 2月吉祥日 松井三郎 ヒサエ 建之」。裏面「生出家」。左面「椎地四郎 眞書」。

*左側に墓誌が建ち、前面は「東京帝国大学工学部土木学科卒 鹿島建設常務取締役 生出久也(1915-2010.3.28・享年94)の刻みから始まり、次に松井ヒサエ(R3.12.20・享年77)が刻む。裏面も墓誌であり(元々はこちらが前面であったと思われる)、「商学士 生出弘毅」(M45.3.27-S18.1.6)から刻みが始まる(日産自動車に従事していた旨も刻む)。生出大璧の戒名は仁光院明哲大璧居士。「府立第三高女教職」とも刻む。その隣りは生出拙哉(おいで せっさい)こと、本名は生出徳治(1883.8.19-1956.9.26)が刻む。生出拙哉は東京高商(一橋大学)、中央大学商学部教授。'28 棋士の卵の養成のため「新進棋士奨励会」を発足メンバーのひとりとして奨励会幹事を務めた。その次に生出大璧の妻の悦子。次の生出香湖には「森村商事勤務 草月流創設に参画 最高顧問」と刻む。次は生出澄子「武蔵野女子学院卒業 鹿島建設婦人会支部長ほか 久世の転業活動を支える」と刻む。次に生出ミキオ「東京大学法学部卒 鹿島建設」と刻む。


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