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おぐら つねきち

小倉常吉

おぐら つねきち

1865(慶應元年)〜 1934(昭和9)

明治・大正・昭和期の実業家(小倉石油)、
向島百花園中興に尽力

埋葬場所: 9区 1種 7側

 埼玉県深谷出身。柴崎宗十郎の三男として生まれ、先代常吉の養子となる。12歳の頃上京し、日本橋の油問屋の枡屋・長谷部商店に雇われる。 秘かに石油について研究し頭角をあらわし、弱冠22歳で支配人(一番番頭)を勤めるに至る。1889(M22)独立して石油業を開き、1899製油事業をはじめる。 1905(M38)中野貫一の協力で小倉金津製油所を建設して'06(M39)〜'14(T3)2月まで月540キロリットルを精製して菊花印、汽車印の商標で機械油を出荷した。 '25(T14)小倉石油株式会社(後に日本石油と合併)を創設。大島精油所、鶴見貯油所、新潟や秋田に油田を持ちタンカーも数隻持つなど日本屈指の石油会社として、日本の石油王といわれた。
 1910(M43)大洪水以降、深刻な経営難に陥った百花園に対し、常吉は百花園を五代目平兵衛氏から15(T4)土地所有権が得る。 常吉没後の1937(S12)9月、未亡人のぶ、亡夫の追善と名勝の永久保存を図るため、百花園の土地所有権を東京市に寄付する申し出をおこない、復旧保全工事の末、二年後に再開園された。

<向島百花園パンフレット>
<墨東歳時記・百花園>


*墓所は青山霊園にもある。


《向島百花園》
 現在から約200年前の文化・文政時代、仙台出身の佐原鞠塢によって開設。 開設当時、太田南畝をはじめとした文人墨客が数多く常連客として訪れ、作庭にも江戸庶民の趣向をこらしていた。 その後も、11代将軍家斉公などの賓客ともに、江戸庶民の行楽の場として「春夏秋冬花不断 東西南北客争来」 の盛況を得、明治へ時が移っても幼少時代の昭和天皇、伊藤博文や乃木将軍など多くの人々に愛されてきた。
 明治にうつり、数多くの工場が周辺にできるなどの環境の変化、またたびかさなる隅田川の洪水により疲弊してきたが、 大正時代初期に小倉常吉氏の支援により息を吹き返し、昭和8年、国指定の「名勝・史跡」となった。 その後、小倉氏の遺志により百花園は東京市に寄付をされ、昭和14年に東京市の公園として再開園された。
 昭和20年3月東京大空襲にで全園焼失したが、昭和24年に復興園地として再開され現在に至っている。


所在地: 東京都墨田区東向島3−18−3
面 積: 約1ヘクタール
百花園という名は「梅は百花のさきがけ」という意味で酒井抱一(画家・俳人)が命名。


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