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おぐま ひでお

小熊秀雄

おぐま ひでお

1901.9.9(明治34)〜 1940.11.20(昭和15)

昭和期の詩人

埋葬場所: 24区 1種 68側 32番

 北海道小樽市稲穂町出身。毛皮仕立職人の三木清次郎と小熊マツの長男として生まれる。旧姓は三木。3歳の時に母を失い、7歳年上の姉のハツは小樽の安田家に養女に出された。父が再婚し稚内に移住し、まもなく樺太に移住、11歳の時に父方の叔母が住む秋田県大館に移り、更に再度樺太に移るなど転校を繰り返し、1916(T5)樺太の泊居尋常高等小学校を卒業。卒業後は、漁師、昆布採り、養鶏場の番人、炭焼き、農業、材木人夫、パルプ工場の職工など転々と労役に従事。この時、作業中に右手の食指、中指の二本を機械に挟まれ失う事故に遭う。小熊自身がこの時代の頃を「農奴時代」と語っている。
 '21徴兵検査で取り寄せた戸籍に母の小熊マツの私生児として入籍されていないことを知り、以降、小熊姓を名乗ることにした。また3歳で生き分かれた姉のハツ(嫁いで津村姓となる)が旭川にいることを知り再会した。小樽で呉服店店員となり反物行商を行うが長続きせず、'22(T11)姉を頼って旭川に住み着き、旭川新聞で記者見習いになり、後に社会部記者になった。文才が認められ文芸欄も担当。この頃より短歌や詩作を始める。
 '23旭川新聞に最初の詩作『奪われた魂』などが掲載される。この頃よりペンネームを小熊愁吉(おぐま しゅうきち)や黒珊瑚(くろ さんご)の筆名を使用し作品や取材記事を書いた。'24画家の高橋北修と共に上京し、詩を売り歩くが一編も売れず挫折し帰った。'25.2神居小学校の音楽教師をしていた崎本つね子と結婚。同年、再び上京し、松竹キネマへの入社を図るも不採用となり再び旭川に戻った。'26旭川新聞社に復職し、旭川歌話会の設立に参加。短歌を作り始める。'27(S2)今野大力(21-2-12)、鈴木政輝らと詩誌「円筒帽」同人となり小熊醜吉(おぐま しゅうきち)の名で精力的に詩作を発表。この頃より、旭川新聞に挿絵を入れたエッセイを連載したり、油彩を描いた。
 '28父が亡くなったこともあり、旭川新聞社を退職し、家族と伴に三度目の上京。雑誌社や業界紙の編集として働きながら、民謡調の詩を雑誌「民謡音楽」に発表。'30生活は苦しく家賃の滞納、長男の入院治療費の未納、都会の飢餓に苦しみ、自身も喘息発作に苦しむ。
 '31プロレタリア詩人会に入会し『スパイは幾万ありとても』を発表。プロレタリア文学運動に参加を経て、'32全日本無産者芸術連盟〈ナップ〉に加わる。弾圧検挙に巻き込まれ、小熊も29日間拘留。翌年も逮捕され拘留。発表の場を失う。
 '34遠地輝武・新井徹らと詩誌「詩精神」を創刊。「働く詩人」を自称し、書斎派の詩人たちにはない奔放で大胆かつエネルギーあふれる作品を発表し、詩人としての才能を発揮する。'35『小熊秀雄第一詩集』を刊行、長篇叙事詩『飛ぶ橇』、詩作『長長秋夜』を発表し詩人として地位を確立した。口語・日常語を巧みに生かし諷刺のきいた長詩を多く残した。日中戦争に対しても抵抗の詩をうたいつづけた。「洋画壇時評」に美術評論を執筆。童話『或る手品師の話』『焼かれた魚』もある。
 '36読売新聞の文壇諷刺詩、諷刺文が好評を得、'37〜'39都新聞(東京新聞)誌上に『大波小波』の評論を発表した。35歳頃より「詩人」「文芸」「文藝春秋」「文学評論」「テアトロ」「文芸首都」「新劇人」「中央公論」など多数の雑誌に詩・小説・評論が掲載され引っ張りだことなる。大学新聞にも寄稿。デッサンやスケッチにも印象的な絵画作品を残し、'37池袋の喫茶店でデッサン・ペン画の個展を開いた。'38旭川新聞に「旭川風物詩」を連載、大井広介、本庄陸男らと「槐」を創刊。小説「犬は何故尻尾を振るか」を発表。'39「現代文学」を創刊し、翌年より「愚感詩集」「逍遙詩集」「流民詩集」「通信詩集」を立て続けに発表した。
 漫画出版社の中村書店の編集顧問となり、旭太郎(あさひ たろう)の筆名で漫画原作も執筆。『不思議な国 インドの旅』(渡辺加三作画)、『コドモ新聞社』(渡辺太刀雄作画)、『火打箱・しっかり者の錫の兵隊−アンデルゼン漫画物語』(渡辺加三作画)、『コドモ海洋丸』(渡辺加三作画)があり、'40原作を担当した漫画『火星探検』(大城のぼる作画)は、日本のSF漫画の先駆的傑作とされる。この作品は、手塚治虫、松本零士、小松左京、筒井康隆ら若き日の戦後の巨匠たちに影響を与えた。
 大正終わりころから太平洋戦争末期にかけて池袋モンパルナスというアトリエ村があった。この名称は小熊が命名。池袋周辺に在住していた画家や音楽家、詩人などの若い芸術家を集い活動拠点としていた。「私はしゃべる、若い詩人よ、君もしゃべくり捲れ」とうたった。しかし、時代と貧困と病により東京豊島区の自宅アパートで肺結核のため逝去。享年39歳。没後、追悼号や遺稿詩を各誌掲載、遺作デッサン展が銀座で開催、'47中野重治の編集で『流民詩集』が刊行された。'67旭川市の常磐公園に小熊秀雄詩碑が建之。小熊秀雄の業績を讃え旭川市が「小熊秀雄賞」を制定し文学賞を創設した。

<コンサイス日本人名事典>
<「詩人・小熊秀雄39年の生涯その年譜」旭川冨貴堂など>


*洋型墓石に自筆「小熊秀雄」。右面「一九八一年十一月建之 小熊ツ子コ」。裏面は墓誌となっており、小熊秀雄、長男の小熊焔(1926-1945.8.25)、小熊ツ子コ(つね子:1982.1.31歿)が刻む。戒名は刻まれていないが、小熊秀雄の戒名は徹禪秀學信士。

警告看板

*小熊秀雄詩碑が建つ旭川市の常磐公園には今野大力詩碑も建つ。今野大力(21-2-12)の墓も継承者不明で東京都から警告看板が立った(現在未確認)。

※小熊秀雄が亡くなった41年後、昭和56年有志により、妻の小熊ツ子コがやっと多磨霊園のこの地に墓石を建之した。建之翌年に亡くなっており、長男も亡くなっています。その後の継承者は不明ですが、ついに小熊秀雄の墓の前にも2019年より警告看板が立ちました。2020年度中に6親等内の身内の申告がないと墓所が撤去されてしまいます(2020年4月撮影)。

※2024年(令和6年)4月現在、まだ撤去看板が立っています。


小熊つね子(おぐま つねこ)
1903.10.3(明治36)〜 1982.1.31(昭和57)
小熊秀雄の妻
 山口県岩国出身。本名「ツ子こ」。旧姓は崎本つね子。1911(M44)崎本一家は旭川に移住した。1925(T14)つね子が旭川市神居小学校教師の時代に旭川新聞記者の秀雄(同墓)と結婚。東京に移る。
 比較的富裕に育ったつね子は貧窮生活によく耐え、秀雄の詩作活動を支える。'26長男の焔を生む。同年旭川に戻り、秀雄は旭川新聞に復職。1928(S3)新聞社を辞めた秀雄と再び東京に出るが、困窮生活の中で、つね子は病み、秀雄も喘息にあえぐ。こうしたなかで秀雄はプロレタリア詩人会に参加、精力的に詩作、文芸評論、美術評論を発表するが、'40(S15)に結核で死没。『小熊秀雄全集』全五巻には、つね子が保存し続けた未発表作品も多い。享年78歳。

<日本女性人名辞典>
<五輪塔様より情報提供>
<旭川文学資料研究会 沢栗修二様より情報提供>



第150回 お墓がピンチ! 39年の生涯 35年の下積み 苦労人作家
小熊秀雄 お墓ツアー


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