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おがわ りゅう

小川 龍

おがわ りゅう

1878.4.17(明治11)〜 1932.2.22(昭和7)

明治・大正・昭和期の海軍軍医(中将)

埋葬場所: 7区 1種 5側

 茨城県出身。1898(M31)東京帝国大学医科大学に入学し、翌年、海軍軍医学生となる。1903.1.15卒業し、海軍中軍医として横須賀海軍病院附となる。同.7.7鎮遠乗組。翌年海軍大学軍医。'05.10.14如月乗組兼横須賀海軍工廠艤装委員、'06.12.20横須賀水雷団附、同.12.31如月乗組。
 '07.2.28東京帝国大学大学院修学。'09.4.1呉海軍病院附、同.10.11海軍経理学校軍医長 兼 海軍軍医学校教官監事、'10.8.9海軍経理学校教官も兼務、同.12.1海軍軍医少監となり、海軍造兵廠軍医長 兼 海軍軍医学校教官監事を歴任し、'12.4.20宗谷軍医長に就任した。
 '13.12.1(T2)舞鶴海軍病院附 兼 看護術練習所教官、'14.4.22舞鶴鎮守府附を兼務し、同.11.11臨時青島要港部附を経て、'15.6.30補臨時青島防備隊軍医長。同.12.13軍医中監に昇格し、海軍軍医学校監事兼教官を任ぜられた。'18.3.1連合王国駐在被仰付。 '19.9.23官名が改称され軍医中佐、同.12.1軍医大佐に進級した。'20.3.24帰朝し、同.6.15海軍軍医学校教官、'21.11.20横須賀海軍工廠軍医長 兼 横須賀海軍病院部員、'22.12.1海軍省医務局局員を務めた後、'24.12.1軍医少将に累進し、横須賀海軍病院第一部長となった。
 '25.4.27佐世保海軍病院長 兼 佐世保鎮守府軍医長に着任、同.12.1海軍軍医学校長に就任した。'28.12.10(S3)軍医中将となり、'29.11.30海軍省医務局長となるも、'32現職にて逝去。享年53歳。正4位、勲2等、功5級。没後、同.2.29勲1等瑞宝章追贈。

<帝国海軍提督総覧>
<日本海軍将官総覧>
<20世紀日本人名事典など>


*墓石は和型「小川家之墓」。右面が墓誌となっており、戒名は騰雲院殿仁海眞龍大居士。「海軍々醫中将 / 正四位勲二等功五級」と刻み、行年は五十五才と刻む。裏面は「昭和八年二月 小川一郎 建之」と刻む。

*妻はとき(S46.8.8没)。1889(M22)龍と結婚。父は麒麟麦酒、福徳生命保険、帝国劇場各取締役を務めた田中常徳。弟で長男の田中辰三は東洋金属工業専務などを務めた実業家。

*人名事典では小川竜(おがわ りょう)とするものもあったが、墓石には「龍」とあり、軍人名鑑のほとんどが「りゅう」としているため、そちらを優先した。


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